ライターになりたい! プロが教える、好きを仕事にするサバイバル術【04 〜筧真帆〜前編】

いまや大人がなりたい職業1位となった“ライター。とはいえ、ひと言でライターと言っても、資格はなく、名刺を持った人がその日からなれるこの職業が、どんなお仕事なのか、どうやってなるのか、生活はできるのかなど疑問に思う人も多いはず。少しでもライターという職業に興味を持った人が読み参考にするべく、ライターを生業としている人に志望動機から楽しみ方、苦悩などたっぷりインタビューしていく連載です!

今回は音楽雑誌をメインにライターとして活躍する傍ら、”日韓音楽コミュニケーター”として日本と韓国の音楽を繋ぐエージェントのお仕事もされている筧真帆(かけひ・まほ)さんをお招きしました。現在、サマソニの韓国アーティストブッキングも担当されている筧さんがいまの仕事に就いたきっかけは、とある船での異文化交流体験でした。

筧真帆●ライター、日韓音楽コミュニケーター。在阪局で報道アナウンサー、ラジオDJを経て、2004~2007年ソウルへ移住。現地音楽についての取材を行いながら西江大学・韓国語教育院(語学堂)を卒業、2008年から東京を拠点に活動中。エージェント業と並行しながら、ライターとしては「B-PASS」「Billboard JAPAN」「THE FIRST TIMES」など幅広いジャンルで執筆中。

吉田可奈●エンタメ系フリーライター。80年生まれ。CDショップのバイヤーを経て、出版社に入社、その後独立しフリーライターに。音楽、映画、声優、舞台、アイドル、タイドラマ、オタク事が得意。InRed、TV Bros.、NYLON、awesome、ダ・ヴィンチ、B=PASSなどで執筆中。著書『シングルマザー、家を買う』『うちの子、へん? 発達障害・知的障害の子と生きる』が発売中。Twitter(@knysd1980)

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取材したことを伝える仕事がしたかった

 

――筧さんはK-POPに強い印象があるのですが、どんな経緯でいまの職業についたんでしょうか。

大学を出てからはテレビ大阪に入り、報道アナウンサーをしていました。報道部の遊軍記者を経て、アナウンサーになってからはニュース番組の中で企画コーナーを持たせてもらっていて。当時はアナウンサーでありながら、取材アポを取って構成を作り、絵コンテも書いてカメラマンに発注し、現場リポートも映像編集もナレーションもするという……リポーター兼ディレクターという仕事を毎週こなしていました。

――そこで取材力を得たんですね。

そうですね。高1から報道の仕事を目指していたので、無我夢中でした。報道アナウンサーとして様々な経験をする中で、“取材したことを伝える”という仕事をもっと極めたいと思いました。韓国の音楽に興味を持ったのも、日韓関係を取材したいという思いの延長で、エンタメであれば報道番組で発信するよりも、もっと若い人たちに伝えられるのではと思ったからなんです。

――そうだったんですね。もともと韓国のカルチャーだけが好きだったわけではないんですね。

はい。当時は邦ロックが大好きで、K-POPは全く知りませんでした。

――そうなんですか⁉ K-POPがすごく好きな方なのかと…。

いまはK-POP関連の仕事が多いので、そう思われがちですが、韓国と関わろうと思ったきっかけも、韓国へ日本の音楽を伝える仕事がしたかったからで。最初に韓国へ行った2000年代前半は、まだ冬ソナブームが来るか来ないかの頃で、K-POPだと東方神起がデビューする前後でした。その当時、私はポルノグラフィティにどっぷりハマっていて。

大好きな日本の音楽を韓国に伝えたかった

 

――何がきっかけだったんですか?

当時、趣味でアンデス地方の楽器を習っていました。ポルノグラフィティの『アゲハ蝶』を演奏したくて耳コピしているうちに、歌詞に興味を持ち、彼らのアルバムを聴き、ライブにも行ったらハマってしまって! 彼らの情報を集めるため、「PATI-PATI」や、いまも執筆している「B-PASS」などの音楽雑誌をむさぼるように読んでいました。そこで、テレビやラジオとは比にならないコアな取材ができる、ライターっておもしろい職業だなと感じていました。

――そこでライターという仕事に興味が湧いたんですね。

はい。さらに、その当時は趣味で船に乗ることが大好きだったんです。「セールトレーニング」という、海でのキャンプ版のようなレクリエーションに参加できる船があって、時々乗っていました。そんななか、日韓ワールドカップがあった2002年に、大阪から釜山へ行く航海に参加して。その船には韓国の学生も半分くらい乗っていて、コミュニケーションをとるうちに、韓国の学生たちがリアルタイムで流行っているJ-POPを知っていて驚いたんです。

――当時の韓国は、日本のCDはまだ販売が禁止されていましたよね?

私も不思議で、どうやって聴いているのか尋ねると、海賊版CDや、現在の配信サイトのように、世界の音楽を扱う、それも無料で聴けるイリーガルなサイトが当たり前にあると。当時は、ですが。航海中のある日、私がポルノグラフィティのアルバムを流したら、韓国人の男子学生に「この曲、知ってる!」と声をかけられ、うれしかったですね。また仲良くなった1人の韓国人に、なぜ日本のカルチャーが好きなのに日本が好きじゃないの?という、いま思えばかなり不躾な質問をしたら、「日本の文化は好きだけど、日本は好きじゃない」と言われ、何日もそれが引っ掛かっていました。そこで、これだけJ-POPへのラブコールがあるのなら、韓国に正規な方法でJ-POPの良さを伝えて、日韓関係改善の助けにならないかと考えたんです。

――そのまま釜山に行かれていかがでしたか?

当時の釜山は、街並みが懐かしい日本のようでした。さらに人々が親しみやすいので、直感で“ここに住めるな”って思ったんですよね。帰国して色々調べてみると、2004年から韓国で文化規制されていた日本のCDが正式に販売されることを知り、これは良いタイミングだなと。でも伝えるからには韓国の音楽市場も知らなければと何度も渡韓して、船で友達になった子に通訳をお願いし、韓国のCDショップや、ライブ会場の楽屋口で待ち構えてアーティストに突撃インタビューをしたり、自主取材を始めたんです。すると、K-POPにもこんなに魅力的な音楽があるなら、J-POPを出すのとK-POPを入れるのと双方向でやろうと思ったんです。

――ものすごいバイタリティですね…!

あはは。そこで取材した素材を日本のFM局や韓流チャンネル、韓国エンタメ誌に持ち込んでいました。そこでの繋がりが、後々のお仕事にも繋がっていきました。

――当時も、韓流雑誌は何冊かありましたよね。

いまは無くなりましたが、当時は「HOT CHILI PAPER」と、「K POPSTAR」の2冊が有名どころでした。

“筧さんじゃないと”と言ってもらえる仕事が得たかった

 

――その当時、韓国語はどのくらい話せていたんですか?

全くです(即答)。

――なるほど…!

過酷な取材には慣れていましたし、通訳を挟んで取材することは問題なかったです。でも渡韓取材を重ねるうちに、当時の韓国って演歌っぽい曲を歌うアイドルもいて、日本と似ているようで違うなと感じたんです。このカルチャーの違いは、韓国に住みながら肌で感じないと分からないと思って。その頃はフリーランスで30歳前後だったこともあり、誰でもいい代わりのきく仕事よりも、“筧さんじゃないと”と言われる仕事を得たいと思うようになっていました。そのために、自分の肩書をひとまわり大きくできたらと思い、韓国留学を決めたんです。留学することで、先々、韓国でJ-POPを紹介する仕事ができたらいいな、いつか韓国で、韓国人とJ-POPを紹介する番組を持てたらいいなとか思っていました。

――アナウンサーとして安定した仕事はあった状態で、新たなステップに進むのはものすごく大きな決断だったと思います。

そうですね。留学を機に、レギュラー番組をすべて辞めました。

――そこに後悔はなかったんですか?

もちろん、手放すことは怖かったです。なので、いったんお休みという形で、3カ月とか半年ほど行こうかなとも考えました。でも、留学経験のある同じ年のディレクターの友人が、「そんな中途半端なことをしていたら語学も身につかないし、年齢をもう少し重ねると、親の健康が気になって留学どころじゃないかもしれない。それなら親が元気なうちに早く行った方が良い」と背中を押してくれたんです。

――ちなみに、留学の費用は貯めていたんですか?

実家に住んでいたので、そろそろ自立しようと何となく貯めていたんですが、留学を意識し始めた頃から、そのお金を留学資金に充てようと思って。

――何年留学されていたんですか?

3年余りですね。ソウルの西江(ソガン)大学の語学堂に卒業まで通いました。ライブハウスが多い弘大(ホンデ)というエリアに近かったのも、西江大を選んだ理由の一つです。

――ある程度大人の年齢になってから留学をするメリットはどんなことでしたか?

なにより、報道部での取材経験が大きく活きました。さらに、韓国は年齢が重要な国なので、仕事先の人達がきちんと接してくれることが多かったですね。もし二十歳そこそこで行っていたら、扱われ方も違ったかもしれません。

音楽雑誌が好きだからこそ「私が書けるわけがない」と思っていた

 

――留学中に並行してお仕事はしていたんですか?

はい。留学前から大阪でDJをしていたK-POPのラジオ番組は、録音機材を買い揃えてソウルの下宿部屋でトーク部分を宅録して、日本のFM局に音声を送りながら続けました。さらに、渡韓して初めて、ライターの仕事を始めることになったんです。もともとポルノグラフィティの記事を読み漁っていて、“書く仕事って面白そう”という興味はありましたが、好きだからこそ“私が書けるわけがない”と思っていて。でも当時の日本では、テレビもラジオも韓国カルチャーを出せる場所がほぼ無く、雑誌でしか伝える場所がなくて。結果として、書く以外の選択肢がなかったんです。

――韓国留学中の筧さんに、どうやって日本からお仕事が舞い込んで来ていたのですか?

渡韓前の自主取材していた頃に知り合った方々から、こういう人がソウルに行ったらしいという話が日本の韓流関係者に広がったらしくて。韓国の俳優やアイドルを載せたい媒体の編集部から私に連絡が来て、その対象にアポを入れ、ライターとして取材し、原稿を日本の編集さんへ送る、ということをしていました。インディーズ系の韓流雑誌の取材では自ら一眼レフで写真撮影もしていました。何度かお仕事をするうちに、「HOT CHILI PAPER」にレギュラーで書いたり、「K-Popstar」では連載も頂けるようになりました。

――韓国語でインタビューができるようになったのは、留学してからどのくらいですか?

1年半~2年目だったと思います。それまでは不安だったので、一応通訳さんについてもらっていました。当時、月~金は語学堂で朝9時から午後1時まで授業を受け、午後は取材や勉強に時間を費やしていました。あとバンドが好きだったので、よくライブハウスを巡ってインディーズバンドのライブへ通っていましたね。

――ライブハウスやインディーズバンドのツテはあったんですか?

韓国へ行く前に、韓国アーティストのショーケースイベントが東京であって、そのイベントを取材した際、韓国アーティストやその関係者の方々にご挨拶できました。そのなかに“紫雨林(ジャウリム)”という、韓国の国民的バンドのドラマーの方がいらっしゃって。その方は若手バンドのプロデュースも手掛けていたので、韓国へ渡った当初、いろんなバンドを紹介してくれたんです。そこから韓国のバンドやミュージシャン界隈にも人脈が広がり、幸いなことに私はお酒が好きなので(笑)、打ち上げの席へ誘われるまま参加するうちに、格段に韓国語が上達していきました。

――なるほど。韓国語で直接インタビューができる人材は重宝されますよね。

そうですね。留学から帰ってきた当時、日本でK-POPについて書けるライターって、数人しかいなかったんです。さらにK-POPアーティストは過密スケジュールなので取材時間も限りがあるので、通訳さんを挟むと時間的に半分になってしまう。通訳なしだとニュアンスも把握できて、話も長めに聞けるし、それにより原稿の文字数も増えるので、日本の一般音楽誌からもライターとしてお声が掛かるようになりました。

エージェントとライターという仕事はどちらも続けていきたい

 

――筧さんはライターと並行して、サマーソニックなどのK-POPアーティストブッキングもされていますよね。どんな流れで手掛けるようになったのでしょうか。

最初にサマソニ(サマーソニック)と関わったのが2011年でした。韓国に住んでいた2006年、韓国初の大規模な音楽フェスが立ち上がり、そのフェスを手掛けていた韓国の友達に「J-POPを韓国に紹介したいなら、ゆくゆくは真帆がJ-POPを呼ぶ仕事をすればいい」と、なかば強制的に立ち上げ当初から手伝わされて(笑)。その後2011年のサマソニで、韓国をはじめ、中国、台湾などアジアのバンドを招くことになり、私は韓国フェス側の立場でブッキングのお手伝いに関わったんです。すでに東京に住んでいたので、その年のサマソニが終わってから、サマソニを主催するクリエイティブマンの清水社長に声を掛けられ、一緒に仕事しないかと言って頂きました。当時生意気にも、「私は日本で一番、韓国バンドに詳しい自信があります」と言ったのを覚えていますね(笑)。韓国語ができることも大きかったでしょうが、K-POPアイドルに詳しい人はいても、韓国バンドやミュージシャンの知識や人脈のある人はなかなか居なかったので、それがご縁となり、本格的にブッキングに関わるようになりました。

――2022年現在、サマーソニックの韓国のアーティストをブッキングしているのは筧さんだけなんですか?

主にはそうですね。でも私が関わり出した当初から、社長の清水さんはアジアに広いアンテナを張っていて、欧米経由でも韓国情報を取り入れていましたし、ここ数年はK-POPに興味を持つスタッフも増えて色んな候補も上がってくるので面白いです。そうした複数候補を総合的なバランスを見てブッキングしています。

――めちゃくちゃ楽しそうなお仕事ですね!

ただし韓国アーティストのライブを観ていると、次のフェスにどうかなとか、あのJ-POPとコラボや対バン組めるかなとか、ビジネス脳になりがちなのが欠点ですね。

――お話を聞いていると、“バンドが好き”という原動力が、韓国留学を経て、ここまでに繋がっているのは本当にすごいですよね。

とてもありがたいです。それに、ライター業をやっていると、バンドだけでなく、アイドル、シンガーソングライターを含めて常々情報を掘るのが当たり前になるので、バランス感覚が鍛えられるんです。なので、“日韓音楽コミュニケーター”と名乗って仕事しています。今後もアーティストを呼んだり現場を作ったりする創る仕事と、書いたり喋ったり伝える仕事と、日韓音楽に関わる全般を続けていきたいですね。

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