ボブ・ディランとお台場の夢【2021年11月世田谷ピンポンズ連載「感傷は僕の背骨」】 

文/世田谷ピンポンズ 題字イラスト/オカヤイヅミ

 

「イキマショ」

 

二〇一〇年、大阪・名古屋・東京を舞台に計十四公演にも及んだボブ・ディランのジャパンツアー最終日、それまで一貫して喋らなかったディランがつぶやいた。

という話を、同じ年の六月に日本橋のお江戸日本亭で行われた『みうらじゅん&山田五郎の男同士3』という番組の公開収録で知った。

 

遡ること三か月前、僕は三月後半のお台場にいた。財布の中にはディランのライブチケットが入っている。

ライブまではまだたっぷり時間があったけれど、グッズ売り場にはすでに長い列ができており、会場の周りにはチケットを入手できなかった人達が最後の望みをかけて集っていた。老若男女入り乱れている。それにしても熱気がすごい。

グッズ売り場の最後尾に並ぶ。

コンサートによく足を運ぶ人は分かると思う。グッズ売り場のテントの上にTシャツやタオルなどのグッズが掲げられ、そこへと徐々に近づいていくあの高揚感を。

何を買おう。悩ましい。じりじりしながら列を進む。

クリーム色のツアーTシャツには『Blonde On Blonde』辺りの時期の若くてかっこいいディランの顔が描かれ、背には今日の日付が書かれている。今日の記念だ。買うに決まっている。

人によってはその場で買ったTシャツに着替える人もいるだろう。

そうやってライブに一歩ずつ没入していく。

グッズ購入は僕にとってライブのひとつのハイライトなのだ。

 

いよいよ会場に入る。加湿され、うっすらと白いもやのかかるフロア。ステージには沢山の楽器が置かれ、その中央にはキーボードとマイク。そのマイクの高さがディランの高さなんだ。そんな当たり前のことに感動する。

それにしても、ディランは続けて七日間もZepp Tokyoでライブするわけだけど、その七日間のうちには、たとえばまんじりともせず、お台場の砂浜をふらっと散歩したり、点滅する都会の灯りをぼうっと見入るような夜もあるのだろうか。

ときには小腹が空いて、吉野家に牛丼を買いに行ったり、タワーレコードで自分のイニシャルの棚を眺めたりする日もあるかもしれない。ベッドに横になって、「笑っていいとも」を観たり、暇を持て余して、マネージャーに東スポを買ってきてもらったりするかもしれない。

そんな空想を転がして遊んでいると、やがて、会場が暗転した。

バックバンドの後からゆっくり現れるディラン。

ディランが動いている。同じ空間を共有している。同じ時代の空気を吸っている。

無言でキーボードの前に立ったディランがおもむろに歌い始めた。

 

 

 

初めてお台場に行ったのは中学生の時だった。

早朝に地元を出発したバスが東京に入ると、周りの友達が騒ぎ始めた。

北関東の方言が行き交う。みんなテンションが上がっていて本当に楽しそうだ。

最初に着いたのは海沿いの水族館だった。

なぜか整列し、ほとんど通過するような感じで館内をぞろぞろと歩いていく。相当、早足のスケジュールだったのだろうか。何も見た記憶がない。

最後に寄ったグッズショップで、ほしの君が僕に「ほら、こういうのをプレゼントすれば女は喜ぶからよ」と言った。

それはイルカがガラス玉を抱えたデザインのきれいなネックレスだった。

ガラス玉がまるで水晶みたいにピカピカ光っていた。

「俺も買うからよ。お前も買えよ」

アクセサリーを買うのも初めてだし、ましてや誰かのために物を買うのも初めてだった。

当時好きだった女の子に思い切ってネックレスを渡すと、とても喜んでくれた。

結局、彼女がそれをつけている姿は一度も見たことがなかったけれど「ほしの君はずいぶん大人だなあ」と僕は思った。

その後、その女の子からはお台場ジョイポリスで買ったミニタオルを二枚もらった。

もったいなくて使えなかったけれど、使えないでしまっているうちになくしてしまった。

だから僕はモテなかったのだろう。

 

次にお台場へ行った時、僕はすでに大学生になっていた。

まだ始まったばかりの頃の「お台場冒険王」。その時、お台場で唯一、冒険をしていたのが僕だった。僕はひとりぼっち、数多の海賊、いやカップルの、カップルや家族連れだらけの海に漕ぎ出でたのだった。

僕の船の行きつく先には内田恭子アナがいて、白いノースリーブ姿が眩しかった。その隣では、元サッカー選手の風間八宏が笑っていた。とどのつまり、それは「すぽると!」のトークイベントだった。

ひとりアパートに帰って、どこに出すあてもない曲を書き綴った。孤独な大学時代の前半を内田恭子アナウンサーが、後半をテレ朝の堂真理子アナウンサーが埋めてくれた。

他に向かいようのない気持ちを彼女達に向けて曲にしたりした。

 

数年後には、お台場で路上ライブをしていた。

外の世界に向け始めた歌はもう彼女達には向けられていなかったけれど、その時、僕が歌ったのは『幽霊電車』という曲。蒼井優と、とあるアイドルグループのメンバーとの熱愛が発覚した日の夜に、まんじりともせず作った歌だった。

たまたま歌を聴いてくれていた青年が「良い曲すぎるでしょ!」と絶賛した。鬱屈から生まれたものが、決してきれいな感情から生み出されたものではない美しさが、思わぬ誰かの心に何かを残す。そんなことが僕にもできるんだと思った。

 

少し時が経って、僕にも、僕のことを理解してくれる人ができた。

彼女と歩くお台場はもう僕が知っている街ではなかった。

パレットタウンでUFOキャッチャーをする。

サッカーのキックターゲットを自慢げにやるけれど、僕の蹴ったボールはちっともパネルを射抜かなくて笑う。

でっかいガンダム。たまごっちのイベント。フジテレビの長い階段。

二人で歩くヴィーナスフォートの偽物の空は、それでも独りぼっちで歩いたいつかのお台場の空より数段きれいに見えた。

ゆりかもめ経由銀座線。二人は三軒茶屋のアパートへと帰っていく。

茶沢通り沿いの小さなアパート。

そこで僕達はボブ・ディランが九年ぶりに日本に来ることを知った。

高いチケットに躊躇する僕に彼女が言う。

「この機会を逃したらもう観られないかもしれないよ。絶対行った方がいいよ」

どんな時も彼女が背中を押してくれた。

 

 

 

夢のような時間はあっという間に過ぎていった。

ディランは、昔の曲をアレンジして歌うから、ライブでは元の曲が何だったか、分からないことがある。それも含めて楽しむのがきっとディランのライブの醍醐味なのだろう。終始、キーボードを弾いて歌っていたディランが、一度だけギターを持ったときがあった。それが何の曲だったかは忘れてしまったけれど、ディランがギターを弾く姿をひたすら目に焼き付けた。

ディランのライブが終わって、会場を後にする時、後ろの方で知らないおじさんが「ディランももう終わったな」と言った。

あれから十年。彼の予言は全く当たらず、いまもディランはツアーを続けている。

ツアーの名前は「ネヴァーエンディングツアー」。

終わることのない創作を生きるディランにふさわしい。

ジャニス・ジョプリンやカート・コバーン、太宰治や織田作之助。

昔は夭折した天才や破滅型の天才に憧れることが多かった。

音楽を志してからは、たとえば、寝たきりになっても妹さんに口述筆記をお願いし、小説を書き続けた上林暁、大病を患いながらも実家で静かに創作を続けた尾崎一雄など長命で亡くなるまで作り続けた調和型の作家にも憧れるようになった。いまもなお作り歌い続けるディランも調和型だろうか。

だけどよく考えてみると、ジャニスもカートも太宰も織田作も、自分に与えられた人生の長さの中で必死に表現をし続けた人達なのだと気づいた。

結局、僕は作り続ける人が好きなのだ。自分もそうありたい。

『感傷は僕の背骨』

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