「花束みたいな恋をした」―見る人の恋をそっと匿う物語【戸田真琴 2021年2月号連載】『肯定のフィロソフィー』

 石岡瑛子展を滑り込みで見に行き、時代を写し取った上でそこに不足した何かを強烈に投げかけるようなクリエイティブに対して称賛を超えた脱力感を覚えた。あまりにパワフルで、情熱とユーモアがあって、骨太だ。今の日本ではこれに並ぶクリエイティブは生まれないだろうと思うと、展示を進めば進むほど、目の前の作品の持つ威力そのもののような希望と現代に対する絶望がちかちかと交互に点滅し、見終わる頃にはとても立っていられないほどにくたくたになっていた。地下のカフェでラザニアとプリンをゆっくりと平らげながら、諦める、ということについて考える。展示されていた内容で最も惹かれたのが三島由紀夫の生涯を描いた『ミシマ―ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ』という映画で、石岡瑛子氏はその中で美術を担っていた。展示会場にはラフ画や実際の映画のダイジェストが流れている。あまりに完璧なその仕事ぶりにしびれ、これは国内でもさぞ評価が高かったことだろうと思いながら説明を読んでいると、三島の親族の意向により国内では発表が成されなかったようだった。それに絶望した瑛子氏は日本を拠点として活動することを諦め、アメリカに身を移したそうだ。諦める、ということについて考える。もともと、諦めなければ夢は叶うとか、そういう夢みがちな他力本願には興味がない(諦めないことも確かに目標の達成において重要な一つの要素ではあるかもしれないけれど、それだけで叶うなら苦労する人なんていない。母親が夢は叶うと言って毎日必死で手を合わせていた仏壇になんのご利益があったのかは未だにわからないし)。それでも、自分自身の努力やポテンシャルとは関係がなく、諦めなければならなくなる日というのはある。精一杯やった、それでもどうにもならなかった、と認める日がいつかくるかもしれないのだ、何事にも。それは自分の人生においても少なからず言えることでもあった。初めから期待はしない主義なので、敵わなかった夢なんてものはないけれど、いつか、いつか分かり合えるのではないかと希望を継ぎ接ぎしながら臨んできたことが、もう無理かもしれないな、と思わされる日がやがてくる。本当に無理だったと諦める日が遠くはないことを感づいている。それは決してマイナス思考からくるものではなく、これを読んだ人が励ましの言葉を探すためのものでもない。ただ、精一杯やってもだめなことというのがしっかりこの世にはあるというだけの話だ。

 きっと流行ってしまう、という予感を嗅ぎつけて、公開してまもなく「花束みたいな恋をした」を見に行った。テアトル新宿にはまだ半数以上の空席があり、ホットドッグと炭酸ドリンクを買った私がぎりぎりで指定席にすべりこんでも迷惑にならない程度だった。私の列には私以外おらず、ふと急いでマナーモードにしようと携帯を探すと、ポケットの中にも鞄の中にもどこにも見当たらないことに気が付く。駅から映画館まで猛ダッシュした途中で落としたのかも知れない。今探しているのとちょうど同じ型のiPhoneが音楽を再生するシーンから、映画が始まる。もしも携帯が今路上に投げ出されていて、伊勢丹の搬入のトラックか何かに轢かれてバキバキに壊れていたとしても、まあいいか、と諦め、映画に集中する。イヤフォンを片耳ずつ分けて聴くカップルを見て、有村架純演じる女の子と、菅田将暉演じる男の子がそれぞれ、「音楽にはモノラルとステレオがあって……」「右耳と左耳で流れている音は違う」「カツ丼をカツと卵丼に分けて食べているようなもの」「マスタリングした人が泣いちゃう」などと音楽蘊蓄をそれぞれのパートナーに語っていく。その時点で私は、全身鳥肌が立っていた。映画は有村氏演じる絹ちゃんと、菅田氏演じる麦くんの、それぞれのモノローグを中心に進んでいく。日記を耳で聴いているみたいな口調は、時に恥ずかしく、時に気持ちいい。明大前の終電を逃して入った店で押井守を見つけた二人は「あのテーブルに神がいます」と言ってお互いのセンスを察し、好きな小説家の名前を挙げ連ねて意気投合し、同じ日の天竺鼠のワンマンライブに行けなかったことを告白しあい仲良くなる。この時点で二人は歩くヴィレッジヴァンガード状態で、見ているこちらとしては非常にこっぱずかしいのだけれど、脚本・坂元裕二さんのリアリズムはこんなところでは終わらない。二人は明大前から調布の家まで歩きながら帰り、雨に降られながら麦くんの安アパートに行き、麦くんの描いたMOTやレコードショップを訪ねる人々のイラストを見たり、AKIRAやドラゴンヘッドやきょうの猫村さんが刺さった本棚を見た絹ちゃんが「この本棚、ほぼうちじゃん」と言ったり、ガスタンクの映像を集めた自主制作映画を見せたりしてどんどん親しくなる。上野でミイラ展を見たり、ファミレスでままごと「わたしの星」について終電まで語り合ったりしてやがて付き合うことになった二人は、就職活動や社会の荒波に揉まれながらも仲良く暮らしていく。

 いやこれ、友達の友達くらいにリアルにいるんですけどこの二人……。という気持ちにさせられ続ける巧妙な脚本と演出は、もはや職人芸と呼べる域だと思う。既視感に次ぐ既視感。私もあるいは他人から見たらこういうふうに見えているのかな、という恥ずかしさ。それでも映画の中の世界と現実世界を切り分ける手立てはなく、ずるずると、これがこの世界のどこかにあった恋の話として、どうしたって見えてしまう。私は半端にプライドが高いので、呑まれるものかと二人と自分の通ってきたカルチャーの絶妙な差異を探して必死で移入しないようにしながら観てしまったけれど(この面倒くささも一歩引いて見れば映画の中の住人とさほど変わりがないのだろう)こんな映画誰だってどこかに自分の写し鏡をきっと探してしまうな、と思った。二人は私が昔住んだことのある家のすぐ目の前の道なんかも平気で歩いていく。同じ街を生きたことのある普通の人たちだ。普通の人たちの映画なのだと思う。大袈裟な思想や信念を無理に人物たちに持たせることのない、まさにそのへんの道を歩いている人たちのことを映画にしたのだと思った。

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