【2022年4月号 爆笑問題 連載】『ひまわり』『生牛しゃぶしゃぶ定食』天下御免の向こう見ず

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<文・太田光>
ひまわり

 イタリア、ミラノ中央駅のホーム。
 ジョバンナは、アントニオを乗せたモスクワ行きの列車を見送ったあともずっとその場所を動けずにいた。
 涙は流れ続けている。その手に握りしめているのは毛皮のマフラー。アントニオが約束した土産だ。
 兵士としてソ連戦線へ向かうアントニオが、列車に乗る直前、「毛皮を土産に持ってくる」と言った。あの時と、同じホーム。約束は守られたが、二人が夢みた未来は大きく変わってしまった。今後再び会うことはないだろう。

 戦争が終わったという知らせを聞いてから、何年も待った。しかしアントニオは一向に帰ってこなかった。戦死の知らせもない。
 きっとどこかで生きているはず。と、ジョバンナは思った。記憶をなくしているのかもしれない。
 待つだけの日々には耐えられなかった。
 ジョバンナは一人、モスクワ行きの列車に乗ったのだ。
 言葉もわからず、何のあてもなかったが、ジョバンナはソヴィエトの地を彷徨うようにアントニオを探し続けた。
 小さな村で、アントニオは生きていた。ロシア人の若い妻と娘と一緒に。
 透き通るような白い肌の妻は、名をマーシャと言った。彼女は片言のイタリア語でアントニオと出会ったいきさつを説明した。
 大雪原の中の行軍で、アントニオは力つきて倒れたのだという。マーシャが見たのは、方々に倒れるイタリア兵の遺体だ。その中のひとつが微かに動いていた。マーシャは必死に彼を家まで運び、温め、看病した。
 アントニオは意識を取り戻した時、本当に記憶を失っていたそうだ。しかしその後、記憶を取り戻した彼からジョバンナのことは聞いていたのだろう。ジョバンナを見つめるマーシャの目は悲しみと申し訳なさが入り混じっていた。
 目の前のマーシャを見つめ、ジョバンナは思った。彼女がいなければアントニオはそのまま死んでいただろう。自分は彼女に感謝するべきだろうか。
 話しながらマーシャは時々娘を叱る。二つか三つだろう。手のかかる時期だ。娘の顔にアントニオの面影がある。
 ジョバンナは思った。いや、こんなことなら、いっそその時に死んでくれていた方がましだった。と。
 工場に働きに出ているというアントニオが帰る時間になって、ジョバンナはマーシャに連れられて駅まで向かった。
 アントニオは列車から降りると、マーシャを抱きしめようとした。マーシャはそれを押し止めてジョバンナの方を指差す。
 自分を見つけたアントニオの目に、明かな狼狽の色がさしたのを見たジョバンナは、耐えられず、動き始めた列車に飛び乗った。
 何日も泣き明かした。家にあったアントニオの思い出の品も写真も全て破壊し、全て捨てた。
 それから数年が経ち、ジョバンナもようやく新しい生活を始めた。
 仕事先の優しい男と結婚をし、子供も生まれた。
 アントニオから電話があったのは、そんな時だった。ソヴィエトからミラノへ、会いに来たのだと言う。少しだけでも話がしたいと。
 ジョバンナの家で二人は会った。夫は夜勤でいなかった。
 年老いたアントニオを見つめ、ジョバンナは言った。
「……何度も自殺しかけたわ。愛がなくても人は生きられるのね」
 アントニオは、言った。
「僕の話も聞いてくれ……1000キロ四方の雪。気がつくと家の中にいた。見知らぬ家、……会ったこともない女……何も思い出せなかった、長い間、何一つとして……あの時頼れたのはあの家だけだった……」
「愛したのね」
「いや……」と言って言葉を探す。
「あの時……僕は死んだ。そして別人になった……あれほど死を間近にすると人間は感情まで変わってしまう。……何と言おうか……確かに僕はそこで暮らした。小さな平和の中に……理解しろと言っても無理だな。うまく説明するつもりだった。……戦争は残酷なものだ。実に……ひどいものだ。残酷だ。……どうして……こんなことに……」
 アントニオはもう一度、どこか新しい場所で、二人でやり直そうと言った。
 その時赤ん坊が泣いた。
 ジョバンナの息子。生まれたばかりのアントニオだ。
「わかったでしょ。あなたにも娘さんが。……犠牲には出来ないわ」

 そして二人は別れた。三度目の別れだった。今度こそ永遠の別れだった。
 列車が見えなくなった後もジョバンナはいつまでもホームに立っていた。……そう。犠牲には出来ない。アントニオの娘も、私の息子も。
 あの子達には何の罪もないのだから。

「じゃあ、だれが悪いんだニャ?」
 突然、ヘンテコリンな声がした。
 見るとホームの隅っこに、今まで見たこともない、奇っ怪で白い小さな動物がいた。
 耳が長くてウサギのようだが、顔は完全に
ネコのウサギネコだ。
「ケケケ、悪いのは誰だニャ?」
「悪いのは……」
 ジョバンナは考えた。

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