【2020年9月号 爆笑問題 連載】『恍惚』『菅っとジャパン』天下御免の向こう見ず

<文/太田光>
恍惚

 拍手と声援がいつまでも続いていた。手を振ると大きな何万人もの声援が更に高まる。全身の血がたぎる。味わったことのない恍惚感。会場のライトが星空のように見える。なんて綺麗なんだろう。仲間達と横に並び、それぞれ手を取り一斉にあげると、声援は更に増した。「ありがとう」と叫び頭を下げる。その夜一番の喝采の中、手を振りながらステージを降りる。
 目を開けると見えたのは古びたマンションの天井だった。夢の中で感じた恍惚はまだ続いているようだった。徐々に高揚感が薄れていく。男は目をこすりベッドから上体を起こす。頭がズキズキする。テーブルの上に夕べ飲んで空いたボトルとグラス。食べ散らかしたつまみが散らかっている。のろのろと立ち上がるとキッチンで水を飲む。窓の外を見ると既に日が傾いている。リビングでテレビをつけ、しばらくザッピングするが何も見たいものがなく消す。タバコに火をつけてしばらく呆然としたあと、冷蔵庫から缶ビールを取り出し、栓を開けるプシュッという音を聞いた途端、フラッシュバックのように記憶が蘇った。「乾杯!」とそれぞれのコップを合わせる。何百人というスタッフや仲間達の声が重なり合う。皆、達成感に溢れた声だった。信じられない夜だった。ようやくここまで来た。メンバーの嬉しそうな顔を見ると自分も嬉しかった。俺達は成し遂げたのだ。いや、これで終わりじゃない。これから始まるのだ。今がスタートラインだ。男はビールを一気に飲みほした。今までに味わったことのないうまさだった。これほど酒がうまいと感じたことはない。
 ふと男は我に返る。そうだった。あの日の酒は格別だった。生涯一のうまさだった。
「ケケケ」
 突然ヘンテコリンな声が聞こえた。
「酒の味がかわってたまるかニャ」
「何」
 見ると部屋の隅にいたのは、今まで見たこともない奇っ怪で白い小さな動物だった。耳が長くてウサギのようだが、顔は完全にネコのウサギネコだ。
「ケケケ…バカニャこというニャよ」
 ウサギネコはトコトコと歩くと勝手に冷蔵庫を開け、牛乳を取り出し、底の浅い皿に入れるとピチャピチャと音をたてて舐めだした。
「プハーっ、ウマイニャぁ、でもミルクはミルクだニャ」ピチャピチャピチャピチャ…。
 このネコ、どこから入ってきた?
「失礼ニャ!…ピチャ…おれはネコじゃニャイ!…ピチャ…ウサギだニャ!…ピチャピチャ…ケケケ、ミルクはやっぱり冷えたのにかぎるニャ…ピチャピチャ…おれはホットミルクは飲めニャイんだニャ、ウサギだけどネコ舌だからニャ…ピチャピチャ…でもウマイけど、やっぱりミルクはミルクだニャ、味は変わらニャイニャ…ピチャピチャ…」
「うるさい!」男は思わず叫んでいた。
 あの日の酒は確かに違っていた。格別な酒だったんだ。
 ウサギネコは皿から顔をあげて男を見つめニヤリと笑った。
「ニャにが違ったんだニャ?」
「俺達は……」
 男の記憶が蘇る。最初は誰にも相手にされなかった。バンドなんて、と…。アイドルは歌って踊るものだ。お前達は成功しない。本格的なバンドはいくらでもいる。他のロックバンドの連中も自分達を笑っているのがわかった。「チャラチャラしたアイドルだろ?」と。皆悔しくて、必死に楽器を練習した。俺達には出来る。どこに出ても通用するバンドになってやる。何日も何日もスタジオに籠もって音を合わせた。確かに俺達はアイドルだ。アイドルがロックをやって何が悪い? ビートルズだって、ローリング・ストーンズだって、アイドルじゃないか。
 少しずつ少しずつ音が合うようになった。固かった弦がきちんと押さえられるようになった。音が響くようになった。リズムが合うようになった。それぞれの呼吸が合った時の快感はたまらなかった。もう一回、もう一回。もっと高いレベルへ。

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