桂浜水族館・おとどちゃん連載「みんな違って、みんないい加減にしろ。」その3

高知県桂浜にある小さな水族館から大きな声でいきものたちの毎日を発信!

桂浜水族館の広報担当・マスコットキャラクターのおとどちゃんが綴る、好評連載第三回!

今回は熱烈なファンがいる桂浜(ハマ)の熟女泣かせ、名物飼育員だったあの人の近況をお届けします。

前回分はこちらから。

 

写真&文/おとどちゃん
編集/西村依莉

日本沈没ならぬ、桂浜水族館沈没の瀬戸際をくぐり抜けた男、土佐の小栗旬こと盛田のおんちゃん。

 

「血も涙もある」

 

桂浜水族館には、誰よりも自分の欲求に素直な子どもみたいな飼育員がいる。自称「小栗旬」の通称「盛田のおんちゃん」だ。

「おんちゃん」とは「おじさん」の意味を持っている方言で、ニュアンスとしては、名探偵コナンでいうところの「小五郎のおっちゃん」とでもいえば伝わるだろうか。この方言を使うのは高知だけではないようだが、馴染みがない人が言うと、某バラエティ深夜番組の企画にも出ていたテレビ局のマスコットキャラクターを思わせるイントネーションになるため、園子「温」や「恩」田陸のように、名前に「おん」が入っていると勘違いする人もいるだろう。

おんちゃんは熟女が好きで、自分よりも二十は年上の女じゃなきゃダメだという。幸は薄めがいいらしい。しかし徹底した熟女好きかといえばそうでもないようで、案外誰でも誑し込もうとする。私にすら

「おとどちゃんは桂浜一の美人だ」

だとか

「おとどちゃんはいつになったら俺と結婚してくれるんだ?」

と、冗談か本気かわからない顔をして甘いことを言う。

趣味は女狩りかと、取調室でスタンドライトを浴びせながら小一時間問い詰め、下世話な自白をさせたいほどに、この水族館でなければ、すでに数多の女性から警察沙汰にされていてもおかしくない言動。

あんたの肺は宇宙にでも繋がっているのかと言いたくなるくらい常に紫煙を燻らせているこの男は、スキンヘッドに吊り上がった眉毛、眼光は鋭く、画に描いたような強面だ。それは一体何年前から着ているんだと問いたくなるレベルに首元が縒れてプリントも擦れてしまっているTシャツに、ハーフパンツかデニムパンツを身に纏い、腐った便所サンダルかボロ雑巾みたいな運動靴を履いている。

遠くから肩で風を切って歩いて来たかと思えば、怪魚「アカメ」のように目を血走らせ、顔に青痣を作り傷だらけではないか。訊けば女にやられたという。彼と出会ってからこれまで、何度かそんなことがあったが、それもこれも自業自得といえば自業自得かもしれない。ペンギンにつけられた傷なのか、女につけられた傷なのか、おんちゃんは生傷が絶えない

また、彼はある日、アシカプールで催して、大きい方を漏らしたこともある

もうここまでくるとなんでもありだ。

いや、ここまでくる前からなんでもありの男だが、一番面白かったのは、嫁入り前の私に向かってなんの躊躇いもなく

「股間が痛え!見てくれ!」

と言ってきたことだ。

結果、笑い事では済まされない事態に陥ったのだが、見れば彼の睾丸が赤ちゃんの頭くらいの大きさになっているではないか――。

はじめこそ笑っていたものの、とにかくこれは異常事態。

早急に病院に行くよう説得し、彼からの連絡を待った。病気の総合総社といっても過言ではないほど、おんちゃんはいくつもの病に身体を蝕まれていて、腎臓が機能していなかったために、睾丸が水分を溜め込んでいたらしい。こうなるまでに、酒や煙草といった不摂生に繋がることは医者から禁止されていたというのに、その言いつけを守りもせず、「病院は嫌いだ」と、体調が悪そうな日に誰が病院へ行くことを勧めてもおんちゃんは渋っていた。

腎臓は「沈黙の臓器」のひとつと言われるが、こういう男のためにも、些細なことでも、なにかあるならちゃんと声を上げてほしい。

そうしておんちゃんは、二日に一度、人工透析をしなければならなくなった。闘病のために飼育の仕事ができなくなると、館長がどんなに辞めないでほしいと引き止めても、「俺は飼育員だ。飼育の仕事ができないなら辞める」と言って振り切り、桂浜水族館を去っていった。

年々減少する来館者。平成二十六年には、職員の一斉退職という大きな事件が起き、創業八十五周年を目前にして経営難に陥った桂浜水族館。当時まだ副館長だった現館長にとって、盛田のおんちゃんは、この水族館を窮地から救った救世主のひとりだ。おんちゃんとの別れで、彼女がどれほど寂しい思いをしたことか。

いっしょに創業百周年を迎えようと約束したのに、ばか。

「俺はもう死ぬぞ」なんて、死んでも言うな。

 

おんちゃんの退職後、しばらくして、追手筋にある店を借り切り、激励会を行った。

何ヶ月か会ってないうちに、おんちゃんはすっかり窶れてしまっていて、ふくよかだった身体は痩せ細り、頬も痩けて、目が窪んでいた。その日、おんちゃんとの別れに涙を流す私たちに、彼は

「泣くなよ。まるで俺が今すぐ死ぬみたいじゃねえか」

と笑い、

「まあ、またイベントの時には行くからよ」

と言って、ほろ苦い煙草の香りとともに夜の街に溶けていった。

ネオンがぼんやりと彼の姿を滲ませ、私の中で、おんちゃんといっしょに生きる甘い時間がゆっくりと止まった。

もうおんちゃんとは生きられない。

どうせ冗談で言っている「好きだ」という言葉も、「結婚しよう」という言葉も、「可愛い」も「美人」も、全部全部今日でおしまい。

私はふたりで綴った日記をそっと閉じて、心の引き出しにしまった。血も涙もない男。さっさと私を通り過ぎていったやつのひとりとして、いつか名前も声も匂いも忘れてしまう思い出になればいいさ。

 

しかし、おんちゃんは義理堅い男だった。

あの日した約束を守り、退職してからも、彼が赤鬼に扮して開催していた節分イベントや恒例行事、記念式典や飲み会など、通院治療日じゃない時や体調が良い日には、事あるごとに水族館に来てくれた

生きものの様子を見たり、若手飼育員にアドバイスをしたり、コツメカワウソの赤ちゃんが生まれた時も、フンボルトペンギンの赤ちゃんが生まれた日も、カリフォルニアアシカの赤ちゃんが生まれる瞬間も、彼は桂浜水族館にいた。

本気で怖いとSNS・TV番組・ネットニュースが騒然となったおんちゃんの鬼の姿。怖い。

 

 

そんなものだから、令和三年十月六日に「明日から盛田のおんちゃんが復帰するで」と、海獣班のリーダーである飼育員から言われた時は、帰ってくるという実感が湧かず、そうかあとしか思わなかった。二日に一度の人工透析にも慣れ、職場復帰したいと言う彼を、館長は待ってましたと受け入れたのだ。

翌日、水族館に着いて、カピバラ舎で水を撒いているおんちゃんを見た時、全部見慣れた光景なはずなのに、彼だけが異彩を放ち、景色の中から強く強く浮き出ていて、あの日からずっと閉じていた心の日記が新しいページまで捲れ、止まっていた時間が勢いよく動き出した。

喉の奥に詰まったままだった思い出が更新されだして、込み上げてきた感情に涙が溢れそうになった。水を撒き終え、ホースを片付けて舎から出てきた彼に

「おんちゃーん!! おはようー!」

と声をかけると、

「おう! おはよう! 俺のタイムカードは? 制服はもらえねえのか!?」

と言ってきた。もっとあるだろう。感動の再会的な第一声が。いや、ないか。数日前にも電話で話したし。

私服のTシャツにデニムパンツというお馴染みの姿な彼が愛おしい。制服については後で事務局のスタッフに訊いてみるとして、タイムカードを用意するのは私の役目だ。ごめんごめん。

一階事務所で新しいタイムカードを出しておんちゃんの名前を書く。事務所に入って来たおんちゃんが、今年の春に入社したばかりの新人スタッフに

「新入社員の盛田だ。よろしく頼む」

と言った。おいおい、「新入」だとしたら大型がすぎるだろう。私がすかさず

「新入社員?新入じゃなくて、侵入社員でしょ

と言うと、おんちゃんはそれがツボに入ったようで、喉を弾くような独特な笑い声を上げた。

「カッカッカッ!侵入社員!いいなそれ!」

 

朝の館内清掃をするため、ふたりで事務所を後にし、掃除道具を置いている倉庫へと向かう。

「食堂のマダムにお茶を淹れてもらって、マダムを口説いてから、俺の一日は始まるんだ」

デニムパンツの両ポケットに手を入れ、私の前を歩いていたおんちゃんが、振り向き様に吊り上がった眉毛を動かして見せた。ドヤ顔やめい。

 

おんちゃんの職場復帰一日目が始まった。事務局スタッフからシャツを受け取り、制服姿になった彼がどこか嬉しそうに見える。

 

しかしこのクセモノ、どこまでもクセモノで、この日から職場復帰することは、海獣班のリーダーと私だけしか知らなかった。事務局スタッフから、おんちゃんが出勤したことを聞いた出張中の館長が、

「なんでおんちゃんがいるの?」

と電話を入れてくる始末。まさに不法侵入社員

「俺は今日から出勤するって言ったぞ!絶対に言った!今日から週二で来るんだ!」

館長ⅤSおんちゃんの言った言ってない合戦。

電話を切ったおんちゃんに、結果どうなったか聞くと、「今日から週二で来る」とのこと。館長の負けだ。

ああ、これは、気がついたら毎日いるやつじゃないか――?

それにしても、飼育員として仕事をしている時のおんちゃんの目の輝き様といったら。

大きな病気を患っているのが信じられないくらい生き生きとしている彼を見ていると、現役でアシカショーをやっていた時のことを思い出す。私が知っているだけでも、当時は、雌のカリフォルニアアシカ「リサ」と息の合った技を繰り広げ、いつも観客を沸かせていた。

おんちゃんは、女と下ネタと嗜好品が大好きななんでもありの男だが、生きものの世話をする時は、誰よりも真摯で愛に溢れている。生きものを見つめる目はいつも優しくて、触れる手は柔らかく温かい。

 

おんちゃんの相棒だったリサが天国へ旅立った翌日、アシカプールの観覧席で、彼はひとり佇んでいて、リサがよくベッドにしていた岩がしとしとと雨に打たれるのを静かに見つめていた。おんちゃんは、生きとし生けるすべてのいのちを愛しているのだ。

ふと無線機が鳴った。

「盛田ぁ、スーパーに野菜をもらいに行くぞう」

「はいよう」

「準備できてんのかあ」

「いつでも行けますよお」

どうやらこれから軽トラックに乗って、先輩のベテラン飼育員といっしょに近所のスーパーに野菜をもらいに行くらしい。

無線機から聞こえる彼の声が懐かしく愛おしい。

「おんちゃんが桂浜水族館に帰ってきた」

と、館長と顔を見合わせて笑った。

水平線を描くように軽トラックが水族館の前の遊歩道を走る。あなたは知らないだろうけれど、私たちずっと寂しかったんだよ。あなたがいなくなってから、ずっとずっと寂しかったんだよ。生きてほしい。無責任かもしれないけれど、生きてほしい。神様どうか、彼をとらないでください。おんちゃんといっしょに創業百周年を迎えたい。

 

いのちを愛して、怪我をして、愛するものに泣かされて、人生。

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