「何度も、死ぬほど幸福だと思えた」監督・戸田真琴が映画製作で見た景色【映画『永遠が通り過ぎていく』インタビュー】
まこりんから最後のラブレター♡戸田真琴フォトブックMakolin is発売♡
戸田真琴フォトブック『Makolin is』発売イベントオフィシャルレポート
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「私楽しいのだめなんだよね。一緒にいて楽しい友達とかできると、辛いの耐えられなくなるから」
『日曜の夜ぐらいは…』というドラマの一話目で、エレキコミックのラジオのバスツアー内のおやき作り体験をしながら、主人公が言った言葉だ。
つくりかけのおやきを落とさないようにしながら、やりにくそうに涙を拭うその姿を、自分だと思わずにいられなかった。私はぼろぼろに泣いていた。彼女が泣き始める前から泣いていた。主人公にあたる女性キャラクター三人が、サービスエリアで連れションをする前に初めてあだ名で呼びあったところから泣いていた。そこからエンディングまでずっと。
それもそうで、ここに出てくる三人の女性は、それぞれ皆、ままならない日々を生きている。おやきを持ったまま泣いた女性はサチ(清野菜名)、高校生の頃に事故で車椅子生活になった母親と二人暮らしをしている、ファミレス店員で、上司のセクハラ&パワハラ発言を録音したことを使って「もっとシフトに入れるよう」脅している。元ヤンのケンタ(岸井ゆきの)は家族に縁を切られて東京でタクシーの運転手をやっている。一人暮らしの部屋に帰っては、『つまんない人生』と呟く日々。初対面からマシンガントークを捲し立てつつ「おばあちゃん以外と話すの久々なんでご勘弁を」と言うわぶちゃん(生見愛瑠)は田舎のちくわぶ工場で働いている。出て行った母親の悪評により村八分状態で、家に帰ってラジオを聴きながら大声で爆笑する時間を頼りに生きている。
「いつもと同じ、クソみたいな日だっただけ」とセリフで形容されるように、ルーチンワークと余裕のない生活の中で娯楽を求める元気すらなくなっていく様は、今の日本での暮らしの中で、あまりに既視感の有る描写だと思う。劇中、車椅子生活で外に出られない母親と、仕事から帰宅後疲れているサチとの間に不和が生じて険悪な雰囲気になったとき、どちらからともなく「煮詰まってる?」と言い、外へ出て車椅子を走りながら押して、コンビニへ行くシーンがある。その中で二人は、“一番高いアイス”を買う。一番美味しい、ではなく、一番高いことが重要なのだそうだ。一番高いアイスは、自分自身をそっと慰めてあげる行為そのものだと思う。たとえそれが一時の鎮痛剤にしかならないことをわかっていても、暮らしを根本解決する方法はほとんどなく、あるとしてもそこへ辿り着き実行していくだけの体力も気力ももう残っていない彼女らは、鎮痛剤の代わりに高いアイスを食べる。強行されたオリンピック、長く続いたパンデミック、度重なる増税や光熱費上昇、上がらない賃金、家庭内の問題に干渉できない地域と行政、夢を見るよりも先に夢を諦めることを知る世代。2023年を生きるわたしたちのこのリアルな、ずっと雨が降る寸前の分厚い曇り空が続いているような暮らしの空気感を、見事に映していると思う。
バカリズム脚本の『ブラッシュアップライフ』も、ファンタジーを織り交ぜながらも基盤は女性4人の友情劇、地元と友達は最高! と言わんばかりの明るくさりげなく情熱的なシスターフッド物語だったのが記憶に新しいけれど、今作はそこからさらに、ひとりひとりの生活するリアルな状況が、危うくヒリヒリと目に映る。心が折れてしまいそうな瞬間、などというのはきっとこの三人はとうの昔に通り過ぎていて、もうこれ以上折れようがないほど折れ続けた結果、はじめから心を揺らさないほうがいい、と学習してしまう域まで達している。この、すでに横たわって起き上がれなくなりつつある心のありかたが、見る人の評価をくっきりと二分するだろう。わたしは、あのへとへとになってもう起き上がることをやめた心のことを、知っているから、それがドラマの中に見えてからずっと泣いてしまった。楽しいときに、前後のことを何も気にせず、ただ体いっぱいに楽しさを受け止めることができる人にはきっとわからないだろう。SNS上でこのドラマについてつぶやかれている言葉の中で、そういうわからない人以上に目についた批判というのが、「見ていて辛くなる」「ドラマを見てる時間くらいは癒やされたい」といったものだった。そして、そう言っている彼ら彼女らもまた、目の前に提示される価値観が何の痛みもなく飲み干せるものではない場合に、そこに新たに立ち向かっていく心の筋力を持っていない人たちなのだと思った。
ものごとを受け止めるには筋力がいる。身体だけではなく、心の筋力。しんどい物語を受け止めるにもいるし、しんどい現実を受け止めるにはもっともっと、必要。そして、サチたち三人が2話、3話とすすんでいく展開を見ながら私は、「幸せになるにも筋力がいる」と気がついた。正確には、幸運や幸福は降ってきただけでは自分の持ち物にはならない。それを目いっぱい吸い込んで、身体の一部、心の一部として受け入れてからはじめて、その幸せはその人の持ち物になるのだと思う。それをするには、心に相応の筋力がいる。見たものを感じ、受け止めたり吐き出したり、受け入れたり咀嚼したりして鍛えられるその筋力は、たったひとりで誰とも何とも触れ合わずに生きていこう、と諦めきっていたら鍛える隙がないし、身内や周りの環境によって傷つけられた経験があると、受け入れることよりも受け入れずに心を守るやり方を取るため、いざというときに幸福を受け止める器が作られていなかったりする。