“手遅れ”の世界で、どう生きるのか『ザ・ホエール』雑感【戸田真琴 2023年4月号連載】『肯定のフィロソフィー』

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「他人がどうなろうと、まあどうでもいいっていうか、どうとも思えないみたいなところあるよね。そもそも他人に期待してないし」と、知り合いが言う。私は、大いに共感するとともに、時折自分がめずらしく取り乱すとき、それは「他人」に対しての諦めきった姿勢とどう異なっているのか考える。自慢じゃないけれど、わたしは他人と口論をすることがほとんどない。この人が言うみたいに諦めているのもあるし、いざ他人と言い合うことになると、自分の言葉があまりにするどいことに自分自身で怯えることになるからだ。そういうとき、どんどんあふれる「正しい」言葉たちに、相手はいつも言葉を迷い、ぼろぼろと粗を出し、感情論と理屈を切り分けられなくなって自滅してしまう。もちろんわたしがとうてい言葉で勝つことのできない賢者は山程いるだろう。だけれど、身近な範囲ではだいたいいつも、わたしが一人で巨大なハンマーを振り回したあとのように、風景がのっぺらぼうになってしまうのだ。それが嫌で、私は他人に基本的に異論を唱えない。思ってもいないことにウンウンと頷くし、楽しくなくてもニコニコ笑う。意見が分かれそうなとき、考えるよりも早く、自分の意見をなかったことにする。少しでも考えてしまうと、すぐに説き伏せる言葉を探して、そのハンマーを振り回してしまうから。強いことは、恥ずかしい。太刀打ちできずに逃げ出す後ろ姿をみて、わたしなんかに勝てないなんて、恥ずかしい人だな、とか生意気に思ってしまう自分が恥ずかしい。人を傷つけることは恥ずかしい。

 待てよ、と私は思う。家族と未だに電話で口論になるのは、それでも自分が家族を諦めていないところがあるからなのだろうか。もともと価値観があまりにも違い、思春期を越える中で日々どんどんと私は家族に自分の話をしなくなった。あらゆる相談は理解される前に否定され、要望は却下され、意見がぶつかるときに双方の主張を整理整頓しようとするとその過程で聞く耳を持たれなくなる。そういうやりとりを繰り返し、すっかり自分のあらゆる決定を、「そもそも言わない」という選択肢を取ることで回避するようになった。ある日、引っ越しをしたよ、という連絡をLINEで告げた。するよ、の時点で連絡すると、過干渉によって自分の思う通りの選択が不可能になる上、親の宗教のこともあるので勧誘などを避けるべく住所はなるべく知らせずにいたいからというのもある。LINEに既読がつくと、すぐに電話がかかってきて、開口一番に怒鳴り声がする。親なのに、無視されたみたいで気分が悪いと怒っている。こうなることはどこかで解っていたにも関わらず、そのための冷静な回避策が取れなかった時点で、私は両親に対して取り乱したままなのだろう。電話口で怒鳴り声を聴くとそれはさらに加速して、話は生活や人生を取り巻くあらゆる価値観の違いまで飛躍し、途中耐えきれずスマートフォンを床に叩きつけてしまった。そんなことになる相手は、ほとんど両親しかいない。私の両親への腐りきった感情と、彼らに対する目線は、“手遅れ”だと感じる。それと同時に、彼らの世代の多くの者達の持つあらゆる凝り固まった価値観、排他性、自分より立場の弱いはずの属性の人間が一人の人として思考していて、時にはそれが彼らより先進的であるということをどうしても認められない愚かさのようなものに触れるたびに、同じく“手遅れ”という言葉が頭をよぎる。これからすべてを分かり合うことも、傷つけ合ってきた互いの全ての罪が贖われることも、決してないのだとわかる。手遅れ、になった世界で、どう生きるのか。手遅れになった人生の、残りの時間をどう使うか。手遅れになってしまっているであろう誰かが、そうして生きていっていつか死に絶えることを、どう見るのか。それが、しばらくずっと自分の中にひとつの大きなテーマとして存在している。諦めちゃだめだ、きっと希望はある! と繰り返し唱えることで生き延びてきた人にとっては、聴きたくもない言葉だろう。だけれど、そうじゃない場合もあるし、それは“希望教”の人たちが思うよりもずっと、多くの事例に横たわっている事実なのだと思う。

『ザ・ホエール』は重度の肥満症によって余命がわずかになった中年男性の、最後の一週間を描く2時間の映画作品だ。映画は、主人公が、姿が見えないようにカメラをオフにし真っ暗の画面でオンライン講義をしている場面から始まる。それから終ぞ最後まで、その部屋(と、家のささやかな外観)から外の世界を映すことがないまま終わる。肥満によって立ち上がることもままならず、食べる、笑う、ひとつひとつの動作に大きなリスクを伴いながら、苦痛とともに生きる姿が痛ましいほどに克明に丁寧に紡がれる。彼を心配し、見守り支えつつも過食の手助けをし続けている親友、カルト宗教の勧誘に来る宣教師、悪態をつきながらもお金をもらうことを目的に主人公の家を訪れる娘、離婚した元妻、登場するキャラクターは皆自分自身の内部にも解決できない罪や問題を抱えていて、その逃避として他人に当たったり、正しくない行動を取ったりする。皆がどこか、ずっと、取り乱している。取り乱した人たち同士の交錯が、一つの部屋の中で化学反応を引き起こし続け、それらの殆どが今よりも一秒先をもっと悪い状況へいざなう。一つの部屋で、手遅れになってしまった命が尽きるまでの話だ。
 主人公の担当している講義は、エッセイに関しての内容だった。冒頭、過呼吸を起こし心臓を抑えながら苦しむ主人公は、そこへたまたまやってきた宣教師にあるプリントを手渡し、それを読んでくれと頼む。そこには、エッセイ、それも淡々とした口調の、読書感想文のようなものが書かれている。その短い読書感想文を聴き終えると、男は満足そうに落ち着くのだった。
 私にとっての「いい映画」は、観ていて幸せになれるかどうかでも、驚くべき結論をくれるかどうかでも、技術的に優れているかでも、倫理的に正しいかどうかでも、共感できるからでも、もちろんない。ただその映画でしか観られない個人的な目線――それがフィクションの登場人物という実在しない個人であっても――を感ずることができるか否か、この一点だけでのみ判断される。私は孤独が見たい。孤独とは、その人の人生のこと。ある人が、その人の目で世界を見て、身体をあやつり、心を震わせたり震えない心に落胆したり、生きたこと。だれかの人生を見て、自分の人生を少し、考えること。それは、決してセーブデータを移行できない、体の寿命が人生の寿命なのだと決まってしまっているわれわれの、唯一の結び目、小指をそっと引っ掛け合うくらいのささやかさで受け継がれてゆくもの。
 苦しみに満ちたこの映画に、ひとすじ差している光が、エッセイだった。ひとつの読書感想文の、その素直な感性を称賛する心が、身体的にも精神的にも“手遅れ”である主人公の、誰にも汚すことのできない心のひとしずくの美しいところだったのだと思った。もちろん、ここに出てくる誰一人、救いようがないほど自分の魂を汚してしまった人はいない。ただ、人は少しの弱さの繰り返し、積み重ねで、自分自身の人生を取り返しがつかないほど蝕んでしまうものなのだと思う。
 ああ、あなたは今あなた自身の人生を、自分で蝕んでしまっているから、だからそこからせーので出ましょうよ、ってこれまで何度言っただろうと振り返る。だけれどいつも返ってくるのは、そんなことできないんだよ、というあきらめた微笑みで、そう、まだ動くはずの足をひるがえして元いた沼の方へ帰ってゆく後ろ姿を何度見ただろう。ドクロマークのついた看板が見えてなかったわけでもなく、きっと視界の端に見えていて、それでもその方角へ歩き続けた人に、その人以外の人ができることなど何もない。それでも、苦痛でさえ、その人個人の持ち物である限り、それは人生の価値なのだ。

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