文/世田谷ピンポンズ 題字イラスト/オカヤイヅミ
バーカウンターの隅っこの席に両足を乗っけて座る太宰治の有名な写真がある。
場所は銀座のバー・ルパン。太宰治をはじめ坂口安吾や織田作之助ら無頼派の文士が通っていたという伝説のバー。
昔、そんなバー・ルパンにどきどきしながら行ったことがある。
銀座の喧騒から少し離れた路地裏。かっこよすぎて思わず入るのを躊躇してしまいそうな佇まい。普段からバーに行き慣れていない男には敷居が高すぎる気がしたが、高揚感の方が上回った。
カウンターの隅っこに座る。太宰治の写真の席! この席を目当てにルパンを訪ねるお客さんも多いという。
写真を撮影したカメラマンの林忠彦は「オダサクばかり撮っていないで俺のことも撮れよ」と絡んできた男にちょっとムカつきながらも、その男がいま売り出し中の太宰治であることを知って、慌ててトイレの中からシャッターを切ったという。
偶然が歴史を作る。そんな現場にいままさに自分がいる。
表向きにはたまたま空いていたから座ったのだと言わんばかりのすまし顔で腰掛けるが、尻はすでに火照りきっている。クールな大人を装ってみても目はキョロキョロと忙しなく動き回る。注文ひとつするのにも緊張する。ミーハーだと思われていやしないか。そんな些細なことにひどく怯えている。いつも自分の前に立ちはだかる自意識。
実際、ルパンは少しも鯱張った店ではなく、気持ちよくお酒を飲ませてくれる良いバーなのだが、自意識で勝手にから回った僕のルパンでの夜はあっという間に過ぎていった。
銀座は不思議と自分の人生の節目に何度も訪れることになる街だ。
二三歳のとき、コピーライター養成講座に通っていた。
大学を卒業したものの就職も決まっていない身で、これからどうしようかと思ったときに心に漠然と浮かんだのは、小学二年生のときに書いた詩のことだった。
国語の時間に詩を書いてみようという課題があって、その頃始めたばかりのアイスホッケーの朝の練習風景を詩にしたところ、それがすごく褒められたのだった。
ピンクのマジックに大きな花丸。
「誰かに手伝ってもらったの?」と驚く親。
先生も親も少しリップサービスが過ぎたかもしれない。それでも見事に舞い上がった本人は国語をどんどん好きになり、表現することの面白さを知った。将来はことばに関する職業に就きたいものだと漠然と思うようになった。
講座は週に一回、銀座の東京都中小企業会館というビルで開かれていた。授業は主にあらかじめ出された課題に対して受講生たちが考えてきたコピーを講師が一個ずつ講評していくというものだった。
一度も外に向けて自分の表現を発表したことはないものの、ずっとひとりで歌を作って歌っていたこともあり、僕には自信があった。というか自分をいっぱしのミュージシャンだと思い込んでいたので、とにかく自信満々だった。
自分は特別枠である。肩で風を切って教室に入る。ざっとまわりを見回すと、他の受講生はいかにも平々凡々としているように思えた。やはりここには自分ほどの才能を持ったライバルはいないだろう。そう決めつけ、ほくそ笑む。後ろの隅っこのほうに陣取る。
最初に隣の席になった人と自己紹介をしあうという時間があった。
「好きなタレントは?」
「みうらじゅんです」
「みうらじゅん? それ誰です?」
やっぱりここには敵がいない。
溢れ出る笑みをかみ殺した。
最初の課題は『サトウのごはん』についてのコピーを考えるというものだった。
出席番号順にどんどん講評されていく。
「炊かなくて良いご飯です」
「ダメ!」
「いつでも温かく食べられます」
「全然ダメ!」
「このご飯を食べるとホットします」
「安易なダジャレはダメ!」
やはり大したことがない。
僕の番が来た。
「ふるさとの温かさを思い出すご飯です」
「クサっ。ダメ!」
半年ほどで講座は終了した。
もちろん褒められたこともあったが、ダメ出しされ、否定されたことは後々まで心のどこかにひっかかった。その中には、これこそが自分の表現だと思えるようなものもあったから、そういうものを基本や講師の作ったルールの方に寄せられ、括られて批評されることは辛かった。何より人から自分の表現を批評されることに慣れていなかった。
ことばに真摯になるには傲りを捨てることだ。ネイキッドな表現をより輝かすために、センスを裏打ちするために、やっぱり基本は必要だ。
「型があって型破りがある」と誰かも言っていた。
しかし、基本に縛られることが自分の表現を委縮させ、不自由にすることもある。講座ではいつもその二つの事実の間でうろうろしていた。
それでも最終的にはどこかで自分がいいと思う表現こそが一番正しいのだと根拠もなく信じていた。それは若さでもあっただろうし、あの頃そう思えていたことが実はとても大切だったといまは思う。
そんなとき、知り合いの広告代理店の方(Aさん)と、彼が紹介してくれたコピーライター(Bさん)を交えて三人で食事をする機会があった。
Aさんは僕の就職の相談にずっと乗ってくれていた。
焼けるホルモン。軽快な会話。
二人の会話を聞く以上、きっとBさんは凄腕のコピーライターなのだろうと思われた。ことばを駆使して飯を食っている人の矜持が彼の体からにじみ出ていた。
Aさんに促されて、いそいそと自己紹介をする。
「初めまして。細谷と申します。今日は貴重な時間をありがとうございます」
「細谷君は、ほら銀座の、コピーライター養成講座に通っていたんだよね」
Aさんが説明する。
「ああ。はいはい。でもああいう講座に通っていた奴は、なまじ知識があるだけに、めんどくさいから会社の方もなかなか採用しないみたいだよ」
ホルモンを口に含みながら、Bさんは気の毒そうに笑った。
後日、事務局から修了証書が届いた。
名前の漢字が間違っていた。
講座と前後して、バンドを始めていた。自分の作った歌を初めて人に聴かせる恥ずかしさは、すぐに自分の表現を誰かと共有し、音を鳴らす喜びに変わった。
僕にとって音楽こそがことばだった。
心の底ではずっと前からわかっていたことだったけれど、誰かに背中を押されるまで表明できなかった。
「いまは存分に音楽がやってみたいんです」
数日後、Aさんに言った。
その頃の自分の音楽はとてつもなく拙くて、いつも心許ないものだったけれど、自分はそれを信じて生きてみたかった。
知り合いのミュージシャンと銀座で路上ライブをすることになった。
銀座の目抜き通りでギターを取り出し、いざ歌い始めようとすると、サックスを持った四〇代くらいの男が声をかけてきた。
「こんなところで楽器なんか弾いていたら、すぐに怖い人が来ますよ。あなたたち、場所代払っていないでしょ? それならすぐに片づけた方がいいですよ」
彼はそう言うと、僕たちがそそくさと楽器を片づけたあとにそのまま陣取り、自分のCDを慣れた手つきで路上に並べると、おもむろにサックスを吹きだすのだった。
なんてみすぼらしいのだろう。その時はそう思った。
でもそれはもしかしたら、都会に何としてでも食らいついて生きようとするひとりのミュージシャンの姿なのかもしれなかった。
二〇一七年、二度目のバー・ルパン。僕はインタビューに答えている。
その記事には「文学好きに愛されるフォークシンガー」というタイトルがついている。
「いつか小説も書いてみたいと思っています」
「文学とフォークの相性は良いんじゃないかと思うんです」
なんて言っている。
そのとき撮られた写真にはキョロキョロせずに前をしっかりと見据えて話す自分の姿が写っていた。
その夜は坂口安吾が愛したゴールデンフィズというお酒を飲んだ。
ことばがどんどん体から溢れ出ていく感覚が気持ちよかった。
トイレでふと、自分はいま安吾みたいな丸めがねをかけているということに気づいた。
安吾のコスプレをしている人みたいになっている、という考えが少しだけ頭をよぎったが、すぐに消えた。
まだまだ振り回されることも多いけれど、自意識との付き合い方も昔よりはずいぶんうまくなったのだ。
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