「何度も、死ぬほど幸福だと思えた」監督・戸田真琴が映画製作で見た景色【映画『永遠が通り過ぎていく』インタビュー】
まこりんから最後のラブレター♡戸田真琴フォトブックMakolin is発売♡
戸田真琴フォトブック『Makolin is』発売イベントオフィシャルレポート
※本連載はTV Bros.8月号離婚特集号掲載時のものです
「布マスク2枚配られたときとか、ガーシーが当選したときとかに、毎回、“ああもう本当に終わったのかもしれない”って思って、今もそれがずっと続いている感じです」
社会勉強として始めたアルバイトの研修中に、丸2時間くらい、世の中と政治の話をした。私は新人で、指導係の彼女は私より7つも若いが、もうここで2年働いているそうだ。早い時間はお客さんがまだ来ないので、手元で拭き掃除なんかをしながら話す。若者の貧困、マイナ保険証やインボイス、杉並区の投票率がよくなったら過半数が女性議員になったこと、周りの友達みんな選挙行かないんです、って話、ルッキズム、治すとこないのに整形した友達のこと。「夢が叶うとか叶わないとかよりもっと手前で、そもそも夢を見ることができない」ぽつりと、だけれどはっきりと発せられた言葉に、深く頷く。深夜3時、始発を待ちながらスマホを見ると、通過してほしくなかった法案がまた通過していた。この世に残された僅かな希望や残留したまともさが、またさらに踏まれて割れていく音が聞こえる。物心がついてから数十年ずっと、割れる音がしている。それは日に日に加速して、もうほとんど残っていないだろう良心や矜持もまた誰かに踏みつけられ、また力尽き、粉々になる。本当は割られてはいけないものが、割れていく音が聞こえ続ける。だんだん、そのうち、慣れてしまって、最後の希望が割れる日もいずれ来て、みんな、本当は何を臨んでいたのかさえいつか忘れて、思い出さなくなるのかもしれない。そこまで来ればもう、楽だ。何をされても、何を奪われても、力を抜いて、死んだふりをして、痛みを感じないふりをして、そうしていたら命さえいつか終わって、本当に痛みを感じなくなる。
“なまけもの”のカードを額につけて、麦野湊は星川依里と向かい合う。ふたりは電車の廃車両の座席に座り、かいぶつ、だーれだ。と、かいぶつ当てゲームをする。「君は敵に襲われると、身体じゅうの力を抜いて、諦めます」とヒントを貰うと、湊は「僕は星川依里くんですか?」と言う。力を抜いて非常時の怠け者のものまねをしながら、依里は笑う。同学年の子どもたちよりも幼く見える顔立ちで、150年生きたあとみたいに大人びて。
ふたりの少年の交歓が、瞬くようにスクリーンを光らせ続ける、『怪物』の第三章よりも美しいものは、この世界にそうはない。私は今からこの映画のことを絶賛しようとしている。心から賛美し、この映画を作った是枝裕和監督、脚本の坂本裕二さん、2人のその姿勢に連帯したいと思っている。読み終えた人は思わず映画館へ向かうだろう。児童虐待描写、性的少数者に対する大量のマイクロアグレッション表層、教師と保護者の諍いなどの要素が含まれ、それらが非常にリアルな描写をされているため、近い経験のある人は鑑賞の際心構えが必要だと思う。途中で苦しくなる可能性のある映画を観るときはできれば退出し易い席をとって、無理せず視聴を断念して良い。どうしても先が気になるものは、配信された後など多少気が紛れる空間で再度向き合うこともできる。
この記事はある種ネタバレにもなり得るけれど、前情報がいくらあってもあなたはこの映画に翻弄され、感情の針を揺らされ、体験し、映画を目の当たりにするのだと信じる。何千文字を賭しても語れないものだけが、ほんとうは、映画になる。そういう質の光だった。苛烈で、美しく、未来というものに跪いていた。
物語はいくらかの人の視点を通して語られる。一面からみると善良な人であろうとしている人であっても、別の視点から見ると加害者として映る。取り扱うテーマは多岐にわたり、特に重きを置いているクィアな子どもたち(セクシュアリティを自認し分類する手前の段階の)への社会の目線や、組織による事実の隠蔽、児童虐待、マスコミによる加害など一つ一つが突き刺すように緻密に映画内に現れる。エンタメ性と社会問題への警鐘を見事に両立し、それらに収束できない強烈な祈りが本当はこの物語の本質なのだと照らされるように知らしめられる。緻密に編まれた織物は清濁折り重なり、嵐の中をなびいて、やがて観た人の心中をかき乱すだろう。何気なく観た誰かにもちゃんとひっかかるように、マジョリティとしての観客の目線も意識された作りであるけれど、それがマイノリティの視点を軽んじることにならないように、どれだけ神経を使ったのか、というのが脚本の1文字ごと、映像の1シーンごとにひりひりと伝わってくる。
「今後もしテレビに戻られるとしたら取り上げたいニュースはありますか?」というTVキャスターの質問に、「今起きてることだけではなく、少し前のことから縦軸で追いかけて報じるべき」と問い返す。是枝監督は、自身のHPや出演番組にて、メディアと政治の距離感についても提言をしてきた。その意識は『怪物』に流れるテーマとも深く結びついているように見える。ほんとうのことはいつも連なりのなかにある、ばらばらに見ても、その1回のことのみを検証してもほんとうのことにはたどり着けない。この映画は、我々自身にそのことを体感として経験させる。そして、この映画における「真実」が、我々には到底止めることのできない、途方もないスピードと輝きをもって遠ざかっていくさまを見せつけられる。
この世界を生き抜く中で小狡さや偏見や無粋さを息を吸うように身に着けてきてしまった私たちには、もう届かない、子どもたちのあの速度。奥ゆかしいまでのさり気なさが連なって、忘れ得ない瞬間が描かれていく。胸を締め付けられるインティマシーシーンと、理想像でない子どもたちの暴力性。保護者による懸命の保護が、かけがえのない花を踏み潰しているときのこと。親しみを込めて放った言葉が、ふたりを深く傷つけたこと。それでも、正解がどこにあったのかなんてきっと誰にもわからないこと。このときこうしていれば、と思わずにはいられない数々のサイン、過ぎ去っていくシーン。狼狽しながら、食い入るように見つめながら、鑑賞者の私はふと思う。それでも、幸せってなんだろう。映画の中の真夜中、子どもにとっての真夜中はほんとうに透明に暗い、ぽつりとこぼれ落ちる「僕はかわいそうじゃないよ」という言葉に涙が流れた。その通りだ、あなたが美しくても美しくなくても、善でも悪でも、長生きしても、さまざまな加害によって疲れ果てて短い一生を終えてしまうとしても、あなたという人がそこにいたことの誇りを絶対に見失わないように、私は画面を見つめよう。
弱きものほど選択肢がなくなっていく世界で、さらに行き場などどこにもない庇護下にあって、幼いふたりが行けるこの世で一番遠い場所は、近所の鉄道廃墟の中。だけれどふたりは宇宙へ行ける。大人がもう行けなくなった宇宙までも行ける。誰にもバレないふたりのままで、確かに銀河を旅したんです。胸の高鳴りが、生命の根源を震わせるような身体の違和感が、きっと違和ではなくて、ほんとうは違和ではなさすぎてあまりに戸惑った、あの身体の真ん中に宇宙のはじまりがあるような感覚が、戸惑う一瞬前の君達を、ありえないほど遠くへ1秒で連れて行った。世界が君たちの底知れなさに、一瞬釣り合うときがある。それを奪おうとするすべての、あらゆる、無自覚な加害を観ている者に真っ向から自覚させるように緻密に編まれた物語と同時に、物語を越え、決して失われない誇りが星々のように瞬く。希望なのか絶望なのか、そのどちらであるとも明確に示さないのは、これが演説ではなく映画であること、体験であること、誰にも裁かれるべきではない心のうちに委ねるべきものだという証左なのだろう。
すべては連立する。君が美しいこと、君が幸せになりたかったこと、幸せになりたいと叫べなかったこと、幸せになれないと泣いたこと、君を痛めつけた世界の酷さと、途方もない落胆と、煉獄の火のような憎しみと、君が笑ったこと、君が誰かを好きになったこと、君が心底から湧き上がる感情を知ったこと、君が嬉しかったこと、全部、同時にここにある。だれにも都合よく切り貼りさせない。すべてが連なって、すべてが君で、君は生まれてよかった。狭まっていく選択肢、なくなっていく希望の退路、何を奪われても、奪われても、奪われても、それなら、次はなんて言おう。と息を吸うように次の一手を考え続けると、行く果てはこうなるのかもしれないと思った。最後の、最後の、最後まで、賛美するべきことを間違えない。そういう意志を映画から感じた。その決意はやがて物語自体をほどきはじめ、具体性からやわらかに逸脱し、祈り、歓喜、美、まったく新しい摂理のなかをひた走るふたつの命を祝う、祝福の咆哮へと成る。
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