「ただ歩いて、前に進めたら」【戸田真琴 2023年6月号連載】『肯定のフィロソフィー』

「何度も、死ぬほど幸福だと思えた」監督・戸田真琴が映画製作で見た景色【映画『永遠が通り過ぎていく』インタビュー】

まこりんから最後のラブレター♡戸田真琴フォトブックMakolin is発売♡

戸田真琴フォトブック『Makolin is』発売イベントオフィシャルレポート

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 実写版『リトル・マーメイド』が良作だった。という話をすると、「え、今やってるの? ぜんぜん話題になってないよね?」と2、3人に返されたけれど、世間の認識とSNSをよく見ている私とでややギャップがあるようだ。アリエルの配役がハリー・ベイリーに決まったときも、仲間のセバスチャンやフランダーのデザインが発表されたときも、自称「アニメ版リトルマーメイドファン」の人たちがぶつぶつと文句を言うのが目に入っていた。わたしは幼少期にディズニーアニメをほとんど見せてもらえない家で育ったのが幸いしたのか、実写版のキャストやデザインに違和感をもつこともなく、海の生き物が好きだから観に行こう、くらいの気持ちで映画館へ足を運んだ。ここで問題を矮小化しないために付け加えておくと、アリエルに有色人種のハリー・ベイリーを起用したり、「キス・ザ・ガール」の歌詞の中で同意のないキスを促す部分を「目を見て尋ねてご覧よ」と、言葉を失ったアリエルと王子のシーンという設定の中でも合意形成ができるような歌詞に変えていたりする工夫に私は全面的に同意の立場をとっている。言うまでもなく、これまで偏り続けてきたバランスを是正する方向で新作を作ること、子どもたちの無意識下に刷り込まれる可能性の大きいアニメーションの楽曲の歌詞を慎重に検討することは、大人たちの重要な責務だ。

 本作は、冒頭から7つの海のプリンセスたちが集まるシーンで、あらゆる人種のマーメイドプリンセスが登場するところから始まる。アジア系に見えるプリンセスも、アフリカ系に見えるプリンセスも、北欧系に見えるプリンセスも、中東系に見えるプリンセスもいて、それぞれが対等である。鮮やかで素晴らしいシーンだけれど、わたしはこのことにもっともっと観ている人たちがくだらない文句を言うような段階を超えて、さらにもっと多種多様な体型、容姿、態度、ヘアスタイルやファッションのプリンセスも当たり前に存在する世界へどんどん近づいて行ってほしいと思った。こういう一歩を重ねていくのだと思う。
 ハリー・ベイリーの演じるアリエルは海の中では自由にやんちゃに振る舞うけれど、いざ海の外、陸の世界と触れ合うときはぐっと大人しくなる。困惑の色を見せたり、どういう表情をしていいのかわからない、という顔をする。その自然体の芝居がわたしの胸をときめかせた。確かに天真爛漫だけれど、すごく人間らしいのだ。表情豊かでチャーミングな女の子が愛されるのだ、という刷り込みからも解放してくれる解釈だと思い、あまりチャーミングではない自覚のある私はなんだか救われた気持ちになった。人間の船を隙間から覗き込んで聞き耳を立てたり、岩陰からエリック王子をじっと見たりする仕草にも、恋する乙女のロマンチックさよりもリアルな人間のこそこそとした観察の風合いがあり、好感が持てた。

 今作のなによりも素晴らしかったポイントは、ふたりが恋に落ちた経緯の部分だ。おとぎ話では多くの場合王子はトロフィープリンスと化して、ふたりが「なぜ」恋に落ちたのかの説明が十分でない。
 今作では、プリンセスという立場でありながら好奇心旺盛で人間への興味が捨てられないアリエルと、王子でありながら海の向こうへの憧憬と冒険心が捨てられないエリック。他文化へのリスペクトと知的欲求、そして「他文化で作られた素敵な造形物」のコレクターである点も共通する二人が、出会い、シンパシーを感じて惹かれ合っていく。ふたりがエリックの宝物部屋でひとつひとつの造形物を見ていくシーンは多幸感に満ちて、人生で一番の理解者でありソウルメイトに出会えたことの喜びが映っていた。二人が惹かれ合うのが、「王子だから」でも「海に落ちたのを助けてくれたから」でも「美しい歌声だから」でもない、彼らの内面からくるものであることが伝わるように丁寧に作劇されていたのがとても良かった。思わずふたりの恋を応援しながらスクリーンを観ていた。

 観終わって感想などをSNSで見て回ろうとすると、あらためて批判の文言が目に飛び込んでくる。「私にとってのアリエルは永遠に◯◯です」「アニメのアリエルは表情が豊かであることが特徴だった」なんて心の狭い人たちなんだろうとびっくりする。希釈されたレイシズムを大衆が平気で口にするとき、達観したようなことを言う人がたまにいる。人々から差別心をまったく取り除くことなどどうせできない、といったような意見だ。未だに、「差別する自由」があるのだと思っている人は少なくない。中にはポリティカル・コレクトネス自体を親の仇のように憎む人たちさえ見かける。
 そもそも、映画はフィクションである。ある程度今いる世界での偏見やしがらみを持ち込んで鑑賞してしまうことはあるだろうが、できればスクリーンの前に座るとき、まっさらな気持ちで向き合うべきだ。たとえば「ポリコレ」とよく叩かれる例として、映画の中に有色女性の管理職が出てきたとき、「そんなはずがない」「ポリコレ的な意図がある」と思うのか、「ここはそういう世界線なんだな」と思うのかで、観る者の心は試される。その映画の中の世界が、有色人種の差別がなく、性別による差別もなく、能力が正当に評価されて昇進することができる世界だとして、そこでいきいきと働く姿を観ることが、彼女と近い属性の人にとってどんなふうに希望をもたらすだろう。
 新刊の私小説を出版した。育った環境について描写する際、自分の家庭環境がいわゆる「機能不全家族」であることを明らかにすることは避けられなかった。そして、そういった環境で育ったことによる影響について発信する機会も幾つかあった。おとなになっても悩まされている特徴の中で、学習性無力感というものがある。訴えが無効化されたり、お前はどうせできない、と繰り返し言われた経験によって、自分を無能だと思い込む潜在意識が育つそうで、私はそれに該当している。何をしようとしても、でもどうせできるはずがない、と根拠もなく思うことがある。この考え方は、長らく私の足を引っ張っている。行ってみたい道を見つけても、地面から手が伸びてきて足首をつかみ、「そっちに行けるはずがないだろう」と、何者かがささやく。
 そういうとき、成功するイメージを思い描けたらどんなにいいだろう、と思う。

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