スタッフも復活!1990年をまたいで実感した「テレビの笑い」の変化とは『復活!令和もお笑いマンガ道場』vol.1

昭和後期~平成初期にかけての大人気番組『お笑いマンガ道場』が、令和の時代に帰ってきた! 『復活!令和もお笑いマンガ道場』は、現代版らしくナイツの土屋伸之、野性爆弾のくっきー!に足立梨花、漫画家の島本和彦が登場しつつも、車だん吉と司会・柏村武昭は27年前の放送と変わらず出演します。
今回、そんな伝説の番組の復活を記念して、TV Bros.WEBでは2週連続の特集を配信します。第1弾は、当時のプロデューサーと美術セットの方の対談をお送りします。当時の貴重な裏話をはじめ、1990年代以降のテレビの笑いの変化など、じっくり語っていただきました。
(特集第2弾は当時も今回も司会を務める柏村武昭が登場! 9月13日(月)配信です)

『復活!令和もお笑いマンガ道場』
中京テレビ 9/26(日)午後4・25~5・30
※「hulu」で見逃し配信
※中京テレビ公式チャンネル(YouTube:https://www.youtube.com/c/ChukyoTV)で事前配信中 第1回 第2回
出演/柏村武昭 磯貝初奈(中京テレビアナウンサー) 【回答者】車だん吉 島本和彦 くっきー!(野性爆弾) 土屋伸之(ナイツ) 足立梨花
●1976~1994年に放送された『お笑いマンガ道場』(中京テレビ)が令和の時代に復活。当時のセットを再現した中で、お題に沿って回答者たちがマンガを披露し、その面白さを競う。柏村、車の往年のやりとりのみならず、“令和”の回答者たちのマンガの完成度は見ものだ。

https://www.youtube.com/watch?v=v_hTkks9NEY

https://www.youtube.com/watch?v=BmXo_8Sy1vg

 

<プロフィール>
写真右・瀬古隆司(せこ・たかし)●1983年にADとして『お笑いマンガ道場』に参加。1990年10月~1993年3月までプロデューサーを、そして今回も実質的なプロデューサーを務める。
写真左・右高雅人(みぎたか・まさと)●中京テレビの番組で美術担当を務める。番組当初から番組のセットを制作し、今回も当時を再現したセットを手掛ける。

 

罪なく無理なく美しく映る準備をする

――当時のセット制作について教えてください。

右高雅人 新しく番組が始まるということで図面を描く人がいなかったので、僕は呼ばれたんですよ。で、1回目の打ち合わせで『お笑いマンガ道場』って番組が始まるからって言われて、僕が図面を描いてセットを作って。で、そのときは武田っていう僕の先輩が中京テレビに詰めてました。一人だけ常勤でいましたが、一人では何もできないので、僕が急遽呼ばれて参加したというわけです。当時はまだ小さいスタジオでしたから……。

瀬古隆司 ほぼ囲むだけの、2種類くらいのパーテーションで。今日のセットが歴代でいうと3代目か4代目のやつですね。もっとあと?

右高 もっとあと。最初はAスタジオという小さなスタジオしかなかったんですけど、Bスタジオっていう大きなスタジオが新しくできたので、そちらで収録するようになったんですね。それに伴ってセットも大きくしないといけなくなって。

――放送が始まったのが1976年。3年間小さなセットを使って、大きくしたわけですね?

右高 たくさん並べればかさが稼げるということで(笑)、三尺ですが、900mmのものをダーッと並べて、周りを囲うようにしてセットを作ったんです。多少パターンが変わったものを2〜3回変えました。それでちょっと立体的にしようとああいう前に張り出したようなセットを作り始めたんです。

瀬古 それが1982年か1983年頃でしたね。僕がADで入った頃だった。1983年の4月にADで入って、あのセットを作るか作らないかくらいだったんです。なので番組としてはもうすでに8年目になりますね。それが入社2年目でした。

右高 当時はテレビのセットはあんまり目立っちゃいけない時代だったんです。演者さんが死んでしまうから、演者さんを際立たせるためにちょっと地味めなものを配置しておくのがあの頃の暗黙の了解でしたね。ですが、それではやっぱりスタジオが広くなると、どうしても地味になってくるんです。それで色使いをいろいろ取り入れていきました。小さいAスタジオでやってる頃から「おまけコーナー」もあったんですけど、それにちょっと虹っぽい、ショッキングピンクみたいな色を使ってみたんですけど、「ちょっと派手だ」と怒られまして、すぐ作り直した記憶があります。当時はまだ電飾とか使ってませんから、ほとんど手塗りでね。今はパソコンで作ってプリントで出しますけど、当時は全部手塗り。

瀬古 回答者のワンショットを撮ったときに、ヌケが変わるように一人一人の背景に窓をつけたり変化つけたんですよね。

右高 そうです。同じ背景だとどうしても閉鎖的になっちゃうんでね。

――瀬古さんは何年ADをしたんですか?

瀬古 2年半ですね。この番組はすごい細かい作業が多かったですね。出演者の皆さんに考えていただくネタを考えたり、絵を描いていただく道具の手配だったり。普通のフリップだけならいいんですけど、スライドが付いてるような“変形フリップ”は、当時はADが手作りしてました。そういう工作も含めて非常に細やかな準備をADが2人でやってました。アドリブでやってるように見えながら、問題は前もって伝えていたので…。もちろん回答として描く予定の絵を事前に見せてもらうといったことまではしませんが、回答がかぶっていないか、出題に対する勘違いがないかを確認して、全体の調和がとれるようにしていました。鈴木(義司)さんと富永(一朗)さんの戦い、なんでもオールマイティーの(車)だん吉さん、そしてかわいい川島なお美ちゃん。そしてゲストさん。罪なく無理なく美しく映る準備をするっていうことをしてました。5人の回答者でちゃんとハーモニーというかバランスを取るための準備がハードとソフト両面であったので、今と違って時間がかかりましたね。

https://twitter.com/mangadoujo_CTV/status/1430523139226619905?s=20

今回の収録を舞台裏で見守る瀬古さん

出演者のキャラクター設定は『笑点』に倣った

――問題は収録のどのくらい前に伝えるのですか?

瀬古 1週間くらい前ですね。次回の収録はこういう問題で考えていますと振っておいて、だいたいの心構えをお伺いして、それで収録に臨んでました。僕が入った時点で7年やってたわけですから、その間にノウハウがしっかり培われていたんです。だから最初のうちは手探りで大変だったと思います。問題の数だとかなんかも含めて、長く重ねていくにつれてシステムが完成されていった。

――鈴木さんと富永さんのバトルはいつから始まったんですか?

瀬古 明確なタイミングはわからないんですけど、やっぱり漫画家同士として意識し合うようになったのはだいぶ初期の頃からだと思いますね。僕が入る前からその構図はできていました。僕が入った頃には、もう鈴木さんは自分を持ち上げるネタをやってましたね。お城に住んでる、お金をいっぱい持ってるみたいなことをやると、富永さんがそれを貶めるネタをやる。土管に入れたり、もう死んでる、とか。これにもうひとつカウンターがほしいねとなって、富永さんをオバケナマコとか、オオサンショウウオとか、罪のない、子供でも笑える動物に見立てることで笑いを取るっていうカウンターパンチを撃ち出したのがその頃でした。

――そもそもこの番組はどういう経緯で始まったと聞いていますか?

瀬古 マンガで大喜利バラエティができないかということが社内で検討されて、大喜利という形はすでに『笑点』(日本テレビ系)がやってましたから、キャラクター設定はそれに倣いました。当時の『笑点』は、一番左は桂歌丸さんで一番右に三遊亭小圓遊さんが座ってたんですけど、これが『マンガ道場』では鈴木さんと富永さんになって、オールマイティーの先代の三遊亭圓楽さんがだん吉さんになりました。この3つのポジションを柱にしようというわけです。

あと、絵で見せるにあたって初代プロデューサーが言ってたのは、フリップをひっくり返して2コママンガを見せるのは『マンガ道場』の発明なんだそうです。それでストンと落ちるから、2コママンガの問題がやりやすくなったと聞きましたね。

そういえば、回答席だけで大喜利に答えるだけでは面白くないってことで、ゲームみたいなことをやろうとなり、風船マンガとか始めましたよね?

右高 Bスタジオに入ってからですね。Aスタジオの頃はとにかく狭いですから、道具の出し入れがなかなかできなかったんです。広くなってから、後ろにちょっと余裕が取れるようになって、パネルを持ち出したり、回答席を片方に寄せて、コーナーを作ったりできるようになりました。

瀬古 Aスタジオって要はニューススタジオだったんですよ。ニュースしかやってなかったんで、そこを使ってセットをホリのギリギリ、というかホリに引っ付くまで建てて、囲んで撮ってたんですよ。それで当時の名古屋では一番大きなBスタジオができてそっちでやるようになったんです。

右高 ボードの出し入れとかができるようになってから、いろんな企画が生まれた感じですよね。ただ難解なものがけっこう多くて……。いや、作るのに大変なものが多かったという意味ですよ(笑)。アナログの人海戦術ですからね。「恐怖のしりとり」なんて、風船を膨らませないといけないから、空気入れでエアを入れながらキリでプスッと風船を刺したり、そんなことをセットの後ろでやってました。

瀬古 マス目が書いてある上にでっかい風船があって、しりとりで順番にマス目を埋めていくんです。それで風船の下にキリを通す穴があって、演出で「ここで割って!」との指示でパーンと割る。面白かったのが、鈴木さんとか富永さんが怖がって絵の仕上がりが粗くなるんですよね。で、割れたあとで司会の柏村(武昭)さんから「これなに?」って絵の説明を求められて、苦しい言い訳をするのが醍醐味でしたね(笑)。今でも時々バラエティで見かける手法ですけど。

——今回のセットも右高さんが手掛けたのでしょうか?

右高 うちに若いデザイナーがいますので、このお話をいただいたときに、当時どうだったのか? と聞かれて話はしました。ただ、昔の図面は中京テレビの旧社屋に置いてきちゃってて失くなってしまったので、だから記憶だけで図面を再現しました。いろんなセットがあったもんですからね、思い出すといくつかあったんですけど……。

瀬古 この写真を手がかりに再現してもらったんですよ。かなり忠実に作られています。1984年の年末かなあ?

右高 その頃は「おまけコーナー」は上手(かみて)だったもんね。この写真を元に図面を起こしました。

瀬古 一番数字がいい頃ですね。20%台を連発してた頃。名古屋では土曜の夕方にやってましたけど、当時は裏で18時から18時半はだいたいニュースだったんですよ(笑)。娯楽番組をやってなかった。それでしばらくしてフジテレビ系がアニメをかけるようになってちょっと落ちましたけど、それでも十分でしたね。

テレビで求められるものが変わった1990年代

――会議は毎週あるんですか?

瀬古 毎週やってましたね。最初の頃は4人くらいでやってたんですけど、こじま琢磨さんという構成作家の若手のエースが急逝されたので、急遽大勢の作家さんに入ってもらって、一番多いときは7〜8人くらいになってましたね。有名なエピソードで言うと、1983年か1984年に半年だけ三谷幸喜さんが入っていた。構成会議で「今度こんなのやるんで」と東京サンシャインボーイズのチラシを撒いてました(笑)。

――その会議で問題を考えると?

瀬古 みんなで問題を考えて、それを選んで、答えを想定して。かすやたかひろさんという専属のイラストレーターさんがいたので、ちょっと絵にしてもらって検討してました。いつもだいたい3〜4時間やってましたね。日帰りで東京支社で会議してたので、最終の新幹線には乗らないといけなかったから(笑)。前の週にいい問題として採用されたけど、いざ考えてみたらなかなかピンと来なかったからやっぱりやめようかということも多かったですし、過去やって面白かったけど2度目はもう新鮮味がないなあとかもよくありました。そんな感じで作家の皆さんからすごくプレーンな意見をいただけたので、面白さが続けられたんじゃないかなと思います。「ひらめきスピードマンガ」は、単純に面白いから苦しくなったら「3回か4回か入れとく?」みたいな救世主的企画でしたね。これはハズれないからって(笑)。

右高 僕らもちょっと楽でした(笑)。

瀬古 スタートのお題だけ考えておけば、あとはなんとかできちゃう。略して「ひらスピ」って呼んでました(笑)。「もうここ、ひらスピにしよっか」って。まずテーマが与えられて、そのテーマの中で決められたひらがな1文字を頭文字にしたマンガを描くんですよ。長いもので頭に「す」がつくものとか。これも良い答えをした人が柏村さんからレイをもらえる、まあ、大喜利の座布団みたいなことをやってたんですけど、よく富永さんが「なんで俺にくれないんだよお」って拗ねちゃったり、言い訳をしている姿が面白かったですね。レイが没収されたり、眼鏡が没収されることもありました。優勝したからって何かもらえるってわけじゃないんですけどね。あと、変形フリップのできあがりチェックも大変でしたね。ちゃんと意図したオチになるかとか。やっぱり絵を見せるのってリズム感が重要なんですよ。オチでちゃんとパチンと落ちるか、引っ掛かりがないかをチェックしたり。

――リズム感が大事なんですね。

瀬古 2コマと同じで、オチがパタンとくるリズム感が笑いに結びつけるのにとても重要だったんです。だからフリップの操作が難しかったり、動きが緩慢だったりでストンと落ちなかったらフリップを改良してました。このリズム感はけっこう大事にしてやってましたね。構成の頭だった大岩賞介さんはそういったところを重視してました。萩本欽一さんのお弟子さんで、パジャマ党の方ですから。「そこを大切にしないと、せっかく面白いネタを考えても笑えないよねえ」って。マンガの大喜利っていう素朴なところから始まったものを、長い年月をかけてノウハウを重ねて、幸いにも視聴者も増えていって、ネタとか見せる演出もスケールアップしていった感じですね。僕が入った頃には、それがほぼできあがっていたからとても楽でした。

ただ、僕が東京でプロデューサーになった1990年代に入ると、そういうストレートなギャグバラエティみたいなのはもう飽きられてました。

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