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「何度も、死ぬほど幸福だと思えた」監督・戸田真琴が映画製作で見た景色【映画『永遠が通り過ぎていく』インタビュー】
今年2月、ロシアがウクライナへの侵攻をはじめた日、ニュースを見るまで私はスキップをして街を歩いていた。とてもいいことがあったのだ。友人と深く孤独を分かち合うような、それでいて自分らの尊厳の価値をひらめくように理解し合うような、稀有で幸福な対話をしたばかりだった。生い立ちやトラウマ、考え方の癖や歪さによってふさぎ込んでいた未来に、もしかしたら私にしか歩けない光の道筋が存在するのかもしれない、という希望に胸が踊り、はちきれんばかりに世界がまぶしく見えた午後だった。そんな日は生きてきてほとんどない。それは、“わたしが、わたしという歪な個人として生きてきてよかったのだ”と心から思える、そういう種類の幸福な日だった。
直後、その浮足立った気持ちを無慈悲に切り落とされるように、ニュースが目に飛び込んでくる。戦争が始まった。そう頭の中で言葉にすると、目の前と、思考が真っ暗になった。戦争。国家の命令により、個人的な在り方と断絶された価値観のもと、人が、人を、殺す。人が、人を使って人を殺させること。戦争。その日の日記に、こう書いた。
“人には生まれた時にひとり一つずつ、宇宙が配布されている。その内部に、どこの誰とも似つかない、ほかの誰とも替えの効かない、独自の宇宙が育っている。それを、永久にこの世界から失わせてしまうこと。心の準備もなく、最後のキスも落とせないまま、理不尽に強制的にシャットダウンさせられること。人が人を殺すというのはそういうことで、その先には取り返しのつかない無言しかない。”
“知性も芸術もクソもない、内省も祈りもクソもない、美も醜もクソもない、何もかも踏み躙られた野蛮な世界に引き摺り下ろされてしまう。”
私は知性と芸術を愛しているが、それはそのまま本や美術のことではなく、それらを生み出し得る、人ひとりひとりの内部にある宇宙を愛しているという意味だ。人が一人ひとり個人であるということ、その人の目にしか視えないものがあり、その人の内部でしか交差し得ないあらゆるものごとの配合があり、その人にしか感じ得ない感覚があり、その人にしかない真空がある。人がひとり生きていることの価値は、ほんとうのところ、途方も無い。どんな賢人たちにも言語化できる日は終ぞ来ないのではないかと思うほど、膨張しながら光り続けるこの銀河で最高のもの。人間の数だけ、「個人」があるのだという、その荘厳さよ。私は、そのひとつきりの個人、を壊すということがこの世で最も大きな罪であり、悪であり、恥だと、強く自分の中で定義づけている。
今この瞬間に終わってくれ、今日終わってくれ、そうでないと……と祈り続けることもむなしく、今日までにたくさんの命が失われ、街や生活、尊厳、ありとあらゆるものが破壊された。多くの人が亡くなる時、その人数を表す数字や、程度を表す形容詞で言葉にするほか方法がないが、その「たくさん」がどこまで途方も無いすべてだったのか、その「○人」がそれぞれ持っていた尊厳の価値、個人であることのすばらしさ、本来は今も莫大に広がり続けたはずの内部宇宙が停止し、壊され、永久に失われてしまったことがいかにこの世界にとっての耐え難い欠落であるのか、それが本当の意味で伝わることはないだろう。私にとっても、別の国で起きている画面の中の出来事として視えているところがどうやってもあるのだ。そうして皆、防衛本能から感受性を自然とコントロールし、戦争のニュースを見ても涙にくれて布団から起きられない状態にもならなくなって、ちゃんと起き上がって、ご飯を食べて、仕事に行く。日々生きているうちに、戦争が終わらないまま、夏になった。広島・長崎への原爆投下の日、そして終戦の日に合わせ、メディアでもネットでもさまざまな情報が、映像が、言葉が、経験が、リマインドされる。私が、夏のことを死の匂いがもっとも強くなる季節だと思っている理由の一つに、毎年の戦争特集の記憶があると思う。だけれど、こうしてドキュメントやデータ・アーカイブ、さまざまな人の残していった戦争にまつわる記録に触れるほど、終戦の日に思い出すのではぜんぜん遅いのだ、どうして今日まで忘れながら生きていたんだ、と強く思う。夏が死の季節なわけじゃない。戦時中は、春でも秋でも冬でも、晴れた日も雨の日もそのあいだの曇りの日も虹が出た日も、ちょうどよい風が野を抜けて髪をゆらした日も、友達に赤ちゃんが生まれた日も、恋人と喧嘩をした日も、庭の花をスケッチした日も、何もかも、ありとあらゆるすべてが、一日一日、死の日だったのだ。自分や、愛する誰かや、いつかすれ違うかもしれなかった誰かが、死んでも何もおかしくない日。誰かを殺していても何もおかしくない日。権威者がでっちあげた戦争という巨大な物語に対して、なぜそうなったのか? と少しでも分析しようとする度に、思想と呼ぶに値しない、のっぺりとした、決して壊れないコンクリートの壁のような虚勢やプライドや暴力主義の恥ずかしい思惑が横たわり、それ以上の考察を拒む。戦争をはじめるのに納得できる動機などありはしないのだと、あまりにも分かりきっている。あの、叩いても叩いてもこちらの骨がぼろぼろに砕けていくだけの、知性ある対話の通用しない独裁主義というぬりかべを見るときの、芯から真っ暗になるような感覚が、今の日本の権威側に対しても感じられるタイミングが多々有り、毎日落胆し、毎日今できることはなんなのか、考えている。私は自国での戦争をリアルに経験していない。そして私が今日常的に会話する人たち、関わる機会のあるほとんどの人たちも同じである。年々、戦争経験者の声を、感覚を、記録しておく緊急性が高まり続けていると感じる。
戦争によって、選択肢が消える、自由が消える、「個人」が消される、あなたがあなたではないのっぺらぼうの人型のなにか、として数を数えられ、その数字の1としてしか認識していない組織から明日の在り方を、今日の在り方を、命のゆく先を決定されるということ。戦争、を漠然とした恐ろしいなにか、としてではなく、そして単なる「死」のミルフィーユとしてだけでなく、なるべくどこまでもその「悪」の、なにが・どう・どんなふうに惨たらしいのか、これはどういう種類の悪なのか、それが起こったら自分たちは日に日にどうなっていくのか、愛する人たちはどうなっていくのか、自分の手にどんな種類の罪がべっとりと塗られることになるのか、その塗られたなにかに窒息して死ぬことになる自分の尊厳とはなんなのか、考え尽くしても、尽くしても、決して足りることのない想像をすることをやめてはいけない。戦争を経験していないわたしたちにできることは、想像をすること、知らされてきた情報を振り返ること、そして新たな知識を得てまた想像すること、その繰り返しだ。
戦争を描いた映画のなかで、『戦争と女の顔』という映画が稀有な視点で展開されていたので紹介することにする。ロシアに属するカバルダ・バルカル共和国生まれのカンテミール・バラーコフ氏の監督と、ウクライナ生まれのアレクサンドル・ロドニャンスキー氏のプロデュースによって制作され、パンフレット冒頭にはロシアのウクライナ侵攻に対する断固とした反戦のメッセージが添えられている。キャスト含め(制作当時)戦争を経験していない世代の者が中心のスタッフたちによってつくられた、第二次世界大戦独ソ戦直後のレニングラードの街を舞台にした作品だ。
原作はノーベル文学賞の「戦争は女の顔をしていない」、日本ではコミカライズもされていて、コミックの方は私も発売時に読んでいた。様々な女性の戦時中/戦後の心身の傷の記憶が取材をもとに語られる原作に対し、映画はふたりの女性にスポットを当て、回想や戦闘シーンもなしに、戦争の後遺症としての身体的/精神的衰弱、そのごく個人的な傷つきの有り様を丹念に描いている。
看護師たちが忙しく傷病軍人たちの世話をする中、硬直したひとりの女の顔から映画は始まる。“女性の参戦率が最も高かった戦争”(パンフレットより)と言われている独ソ戦で、戦線で戦う軍人であったイーヤは、PTSDの発作に耐えながら病院で看護師として働いている。パーシュカという子どもを愛情深く世話しているが、ある日じゃれ合いの最中に発作が起こり子どもを下敷きにしたまま硬直してしまう。
戦争から戻ったマーシャは、軍服を来たままイーヤのもとを尋ねる。二人はかつての戦友で、子供を産んだマーシャは街に戻るイーヤに預けて進軍した経緯があった。二人は雑居アパートに同居しながら生活を立てなおそうとするが、マーシャにも深いPTSDと生への強迫観念という戦争の爪痕が残っていた。やがて二人はそれぞれに錯乱しながら、憎しみや一方的な欲望をも含む奇妙な共依存関係に陥っていく。
この映画には大きな軸が三つある。ひとつは戦争によって真に失われるものは何か、という問い。そして「戦争は、戦闘自体が終わってもすべての戦争経験者によって終わることなく続いていく」ということ。もう一つが、戦争という巨大な物語の中で、「女性」がどのように扱われていたかということ。そしてもうひとつが、憎しみ、支配、そして暴力を孕んだ女と女の愛を描くクィア映画としての側面。そのどれもが、イーヤとマーシャ、二人の女性にスポットを当て、説明的描写も極限にまで省き、戦争によって破壊された精神とその壊れた心が愛憎に揺れる様を徹底して描くことで目を逸らしたくなるほどに生々しく浮かび上がってくる。