OWARAI Bros.WEB版「同級生~ときどき幼馴染」連載第9回米粒写経・サンキュータツオ×POISON GIRL BAND・吉田大吾

連載企画「同級生~ときどき幼馴染」第9回は、米粒写経・サンキュータツオとPOISON GIRL BAND・吉田大吾。東京都杉並区荻窪で、ほぼ同じ時期に幼少期を過ごしたふたり。接点を持ったのは芸人になってからということだが、今回は番外編としてお届けする。オズワルドやランジャタイなど気鋭の若手漫才師から絶対的な支持を集めるPOISON GIRL BAND。そのブレインである吉田と日本語の学者として同コンビを研究しているサンキュータツオに、漫才について広く話を聞いた。

構成/竹村真奈 村上由恵(タイムマシンラボ)
取材・文/高本亜紀 撮影/池ノ谷侑花(ゆかい)

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■荻窪マインドをもつふたり

──おふたりとも荻窪出身ですが、幼少期はどんな子供でしたか?

サンキュータツオ(以下、タツオ) 自分の家や友達の家、路上などで遊ぶ普通の子供でした。荻窪にはタウンセブンっていう謎の建物があるんですけど、西友も入ってるし、洋服や本、CD……欲しいものは大体売っていたので、20歳になるまで渋谷へ行ったことがなかった。

吉田大吾(以下、吉田) 吉祥寺には行ってなかったですか?

タツオ たまに映画を観に行ったりするくらいでした。生まれた場所と生き方に関係があるかどうかはわからないですけど、有名にならずに生きていきたいっていう考えって荻窪マインドだなと思うときがあるんですよ。

吉田 それ、ちょっとだけわかります。年々好きになるし、やっぱりいちばんいいんですよね、荻窪が。最後に住むならここだよなって思います。

──幼少期から、芸人になりたいという気持ちはあったんですか?

タツオ いえ。僕らってスクール(お笑い養成所)がなかった最後の世代だと思うんですけど、元々、高田文夫先生とか浅草キッドが好きだったんです。今の相方と大学の落語研究会で漫才をやってた頃、キッドさんの活動自粛期間明けで立ち上げたライブを観に行ったらネタ見せ募集をしていました。ネタ見せがどういう文化なのかわかってないまま行ってみたら、キッドさんから次も来いって言われたんです。そこで東京ダイナマイトの(ハチミツ)二郎さんとかマキタスポーツ、U字工事に出会って。

吉田 そのメンバーも来てたんですね。

タツオ 彼らはラストチャンスだという気持ちでいたので、まだそういう気持ちじゃないんだけどって言い出せねえなっていう感じで芸人を始めて、そのままずるずると今まで来てます。

吉田 僕は野球少年だったんですけど、中学で挫折したというか。で、サッカー部に入ってそれなりにやってたんですけど、Jリーガーになるのは無理だし、将来やることないなと思ってるときにたまたま観たものがお笑いだったんです。

■違う志でやってるのが最高だったPOISON GIRL BAND

──おふたりはいつ出会うんですか?

タツオ ポイズンさんが2回目の『M-1』(2006年/テレビ朝日系)に出たあとくらいかな。僕が好きすぎて、主催している漫才だけのライブにお声がけしたりとかで関わりを持つようになったんです。僕らはフリーが長かったんです。オフィス北野に入ったのは2008年くらいで、お笑い界の八丈島みたいなところにずっといたんですね。コンテストでも2~3回戦で終わっていました。コンテストを狙うなら今の相方じゃないのかもなと思うこともあったんですけど、18歳のときに相方と出会ってすっげえ面白いと思った気持ちがずっとあるので、コンテストはどうでもいいと思えるようになりました。コンテストではない生き方をマキタさんたちと模索してたんです。で、どこかに寄席芸っぽい漫才師いないのかなと思ってたときに、ポイズンさんを見て、ほかの人たちと違う志でやってるのが最高だなと思ったんです。2004年の『M-1』って本当に面白かった。その中でもポイズンさんが切り拓いた道って大きかったと思います。

吉田 でもね、最近思ったんですよ。あのとき、ポイズンを面白いって思ってくれた人たちがすごいなって。まず、僕らを観て笑ったお客さんの功績が大きいし、『M-1』予選でピックアップした審査員がすごい。だって、自分で昔の何かを見返したとき、僕はこいつらを上に上げようとは……(笑)。こんなに未完成で拙いふたりをよくぞ面白いと捉えたなって。だから、全員が作り上げたんだなって思います。

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