浅草・黒アンヂェラスと白アンヂェラス【2021年12月世田谷ピンポンズ連載「感傷は僕の背骨」】

文/世田谷ピンポンズ 題字イラスト/オカヤイヅミ

 

二〇一九年三月十七日、閉店する浅草の喫茶店・アンヂェラスに入るための行列に並んでいた。別れを惜しむ人達が路地裏まで何重にも列を作っている。先程まで近くのタピオカ屋の列に並んでいた若い女性がタピオカドリンク片手に通り過ぎざま「なんでこんな並んでんの~」と声をあげた。そんなことばに反感を抱く反面、実際、閉店の知らせに駆け込んできた自分のミーハー加減に彼女との差はないとも思う。それでもどうしても最後に店に来たかった。自分にとって特別な街にある特別な喫茶店。今日でお別れなんて。

 

 

実家が栃木の観光地にある僕にとって浅草は東京への入口だった。北千住駅から数分、特急スペーシアが隅田川を渡るとまもなく浅草駅。朝の光に照らされ輝くアサヒビールの泡。

特急を降りた先、地下鉄銀座線に向かう浅草駅地下通路の下水の匂いや折り重なる人の匂いが東京の最初の記憶。地下通路から東京に散らばっていく人達の中に、中学の数学の先生が女性と歩いているのを見つけたり、日曜日には着飾った同級生の親子がいたりした。朝、急に思い立って父と銀座にビートルズ展を観に行ったこともあった。たかだか一時間四十分程度で着く街。東京は身近なのにどこかよそゆきの街だった。

 

大学に進学して東京はよそゆきの街から自分の住む街になった。自分の街にはなったけれど、大学に友達はなく、ひとりうつむき歩く毎日の慰めは音楽や漫画や映画だった。東京では、それらはいつでも欲しい時にすぐ手に取れる範囲にあって不自由はなかったし、ひとりで何処へでも行くことができた。音楽を聴き、漫画を読み、映画を観て、好きな時に好きな場所に行ったけれど、本当は誰かとその時の気持ちを共有したかった。内に深く潜っていくのと同じくらいのスピードで本当は外へ外へと出ていきたかった。誰かと一緒にいたかった。

独りぼっちに耐えられなくなると、群馬の大学に進学した幼馴染をよく東京に呼び出した。彼は群馬に友達が沢山いて、本当はことさら僕に付き合う必要はなかったけれど、タイミングが合えば東京に遊びに来てくれた。そんな彼に対してあくまでも人への渇望はおもてに表さず、さも東京を毎日慌ただしく駆け抜けているような顔をして街を案内した。彼とは遊園地に行くことが多かった。遊園地だけはひとりでは行きづらい場所だったから。

大雨のディズニーランドで何度もスプラッシュマウンテンに乗り、最後の落ち際に無表情で写真に写るという遊びをして延々爆笑した。笑っているのは自分達だけだった。富士急ハイランドで水上コースターの飛ばすしぶきをひたすらかぶり、パンツまで水浸しになった。水浸しなのは自分達だけだった。

一人が二人になってもその先に別の寂しさがあることを僕は知らなかったから、無理してはしゃぎ、そしてなぜかいつも濡れたがった。風邪をひき、水浸しのガラケーは壊れ、次の日から、また淋しい独りぼっちの毎日が始まる。

彼と浅草の花やしきに行くことになった日の前日、代々木上原に住む地元の同級生のマンションに遊びに行った。そこは僕の三軒茶屋のアパートや彼の住む群馬の学生寮とは違い、本当にマンションと呼ぶのにふさわしい佇まいだった。入口で部屋番号を押し確認を取って開錠してもらうことで、ようやく入ることのできるセキュリティのしっかりとしたタイプのエントランス。まだいまのように大きいサイズの薄型テレビが比較的安価で購入できる時代ではなかったにも関わらず、部屋にはものすごい大きさの薄型テレビが置いてあり、広い窓からは新宿の摩天楼が見渡せた。部屋はまるでいつか観たドラマの中の東京であり、地元にいた頃に抱いた東京というもののあるひとつのあこがれが具現化された姿だった。

「明日、花やしきに行くんだよねえ」顔を見合わせて笑う僕たちを尻目に、部屋の主は「明日は成城の大学で講義を受けたあと、あくまでも大衆居酒屋なんかではなく、間接照明をバキバキに決めた極めてお洒落なbarでのアルバイトがあるので、そんなことには付き合いきれない」ということを遠回しにほのめかすのだった。

 

帰省するとき、今度は浅草が東京の出口になった。

発車までのわずかな時間、浅草駅の地下通路沿いにある立ち食いそば屋「文殊」で夕食を取るのが常だった。店の周りはあいかわらず下水の匂いが強かったけれど、ここで食べるかけそばとミニカレーのセットが大好きだった。熱気を帯びるもやついた匂いの中に醤油と鰹節とだしの香りが薫る。立ったままカウンターで啜るそばが何とも言えず美味しいのだった。

発車まで少し時間がある時は仲見世商店街をぶらついた。松屋のくまざわ書店。観光客のいなくなったあとの浅草寺。月夜に浮かぶ花やしきのゴンドラのシルエット。母は東京に遊びに来て帰る時「浅草まで来るともう帰ってきたような気がして安心する」といつも言った。僕にはその気持ちがよくわかる。

夜の浅草駅から伸びる線路はそのまま故郷へと続くまっすぐ一本の道になる。浅草駅から遠ざかっていく都市の夜景になぜかいつも心を動かされた。望郷の念を抱くほどには遠からず、ひとつの決意をもって出てくるには近すぎる街。

夜景がまばらになった頃、故郷に着いた。

 

 

浅草に好きな喫茶店があると教えてくれたのは彼女だった。その頃、僕はもう二〇代の半ばになっていて、東京の街で音楽を志していた。そこは手塚治虫や太宰治が愛した喫茶店で、お店の名前がつけられた「アンヂェラス」というケーキには、黒と白の二種類があるらしい。その二つの情報だけでもう行ったことのないその喫茶店を好きになっていた。

初めて行ったときに案内されたのは二階の席だった。ブレンドと「黒アンヂェラス」を注文した。「アンヂェラス」はほのかにお酒の香りがして美味しかった。テーブルには鉄腕アトムの絵とサイン、初代店主と手塚治虫の写った写真が挟まれていた。馬場のぼるのサインもあったと思う。大好きな漫画家や小説家が通った店で時間を越えて作家と空間を共有する。僕にとってはマンションの窓から見える摩天楼より東京を実感する瞬間だった。

それから彼女と浅草に行くたびにアンヂェラスに寄るようになった。彼女は梅ダッチ珈琲やフルーツポンチなど色々な飲み物を注文し、僕はいつもブレンドで「アンヂェラス」の黒と白を交互に食べるようにしていた。時折、前来たときに食べたのは黒だったか白だったか全く分からなくなって彼女に聞くのだけれど、彼女にももちろん分からないので、その時は食べたい方を結局注文するのだった。

ある日の夕暮れ時、三階の窓のベルの形をしたステンドグラスに差した光に心が動いた。昼と夜が溶け合う黄昏。頭の中で「アンヂェラス」の黒と白が混ざり合ってグレーになる。歌になりそうだなと思って、すぐにノートを取り出した。二〇一八年の末、お店が閉店することを知る三か月前のことだった。

出来上がった歌にはセンチメンタルさも悲壮感も全くなかった。店のことを忘れないために書いた歌じゃないからカラッとしていて、そこがよかった。

 

 

最後の日、「アンヂェラス」はすでに売り切れていた。本当であれば白アンヂェラスの番だったと思う。

外で並んでいる人達のことを思い、ブレンドだけ注文し、すぐに店を出た。夜、閉店の時間にまた店の前を通ると、ちょうど電気が消えるところで、相変わらず人だかりができていた。店の人が挨拶をすると、沢山の拍手が起こった。僕も、それに合わせて少しだけ手を叩いた。

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