「ハッピーエンドに馴染めない」【戸田真琴 2020年8月号連載】『肯定のフィロソフィー』

 活字の読めないADHD女というつまらんパーソナリティからいい加減抜け出したくなって、最近はやたらと本屋に行く。人生を通した読書量は決して多くはなく、平均値を出すと月に1冊も読んでいないくらいの有様だけれど、本屋のことは結構好き。新しい紙のにおい、白くて清潔感のある蛍光灯、毎月のトレンドが一気に垣間見える雑誌のコーナー、みんながどんなことに悩んでいるのか知った気になれる啓発本の棚、うつくしい装丁と個性的なタイトルフォントが並ぶ文学のコーナー、カラフルな絵本の棚、Amazon Kindleのページよりも部門別に一気にチェックできる漫画の棚。今の世の中の求めているものたちをなんとなく知ってしまった気になれる、飽きることのできない場所。それからじわじわと歩き回って、ピンときたタイトルのエッセイやすきな色と紙質をしたハードカバー本、気になる特集の雑誌なんかを手にとって、あまり迷いもしないでレジに持って行く。きりつめていた学生時代なんかはこうもいかずに、大学図書館でやけに偏りのあるアートの図録やユリイカのバックナンバーなんかを借りて覗いていたものだけれど、今はちょっとやそっと本屋でぴんときたものを買うくらいでは何も困らない、ちょうどそのくらいの贅沢が心地よいという暮らし方をしている。もちろん未来永劫続くものではないので、お金は使えるうちに使っておこうの精神でもある。成金あるあると言われるわかりやすいブランドものには興味が湧かず、いつまでたってもモンクレールのダウンも正面にCELINEって書いたTシャツもDiorのどでかいトートも欲しくならないぶん、ちょこっとした無駄遣いの頻度はかなり多い大人になった。5000円のやや大きめのゾウのぬいぐるみとか、8000円の美術展図録とか、そういう細々としたイイモノのことはあまり悩まずに連れて帰ってやりたいと思う。そんなこんなで、私の家には読まれていない本が山ほど積んである。本は買う瞬間にほとんど完成される、とは誰が言った言葉だったか、はたまたあまりにも「買う」ばかりしかしない私が都合よく頭の中で作った言葉だったか。わからないけれど、自分の美学を補強する何かがそのラインナップにはあった。この色で、この手触りで、このフォントでこのタイトルが書かれているなんてそりゃあ私は好きだろうなあ、とか、この雑誌はなんで買ったんだっけ? そうか、松本隆さんの作詞についての特集があったからなのか、とか、あとから振り返ってもその時その本を選んだ私の美学に会える。そして、流れ過ぎ去ってゆくインターネット記事とは違い、本は、購入してさえおけば世間の波に飲まれて消えていってしまうことはない。本棚に挿してさえおけば、見失うこともない。見かけただけのものは、いつか見えない場所まで流されていってしまう。物体としてここに確かに確保しておくことの、なんと安心することか。今の私にはちょっと難しくてわからなさそうなものだって、何も今の私で間に合わなければいけないわけではないのだ。これから生きて行く中で少しずつマシになっていけたなら、いつか理解しながら読むことができる日が来るかもしれない。死ぬまでの猶予期間が与えられる。その手に持って、本棚に挿しておいたのなら、これからいつになったって、出会いの瞬間から始めなおせる自由がある。なんというかこんな理論で、私は本屋で見かけた「なんか気になった本」をそのままスルーして帰ってくることがどうにもできないのだった。

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