※本連載はTV Bros.12月号龍が如く特集号掲載時のものです
ビールを飲むときや、熱いスープなんかを啜るとき、たっぷりのスクランブルエッグを乗せたパンを齧ったあと、その美味しさを深く感じ入るように受け取る、そういうものの食べ方をする友人がいる。Nさんというその人は、喉をごく、ごく、と鳴らして食べ物を体の真ん中の管に通したあと、ふう、と小さな息継ぎをして、それから少し無音の時間をつくる。目を閉じて、より深く味わうように、そのことを享受する姿は、どこか神々しくさえある。これが、世界のうちの少なくとも善きもの、感じ取るほどに自身を良い方へ向かわせるような、「感じ入るべきもの」に対する正しい態度だと思わされ、私は、敬服する。そう、せっかく食べ物を飲み込んだ口をすぐに開けて感想をひねり出さなくてよい。おいしい、と思うとき笑顔にならなくても良い。無言と、数十秒の無音と、目を閉じて今しがた身体に入っていったものの良さをただ受け取る、そういう在り方をしていていいのだ、と思い直す。私はこれまで、今すぐにもおいしいと笑顔で言ってから、どのように美味しいのかを間髪入れずに述べないといけない、という焦りによってそのものの良さを見逃してきたのだろうか。
何年も続いたルームシェアを解散し、住環境がガラッと変わった。もともと一緒に住んでいた友人とは今も関係は良好であるものの、ともに住む、ということをお互いのためにやめたほうがよい、という話をするときはやはり、一歩何か言葉を選び間違えたら取り返しのつかない傷を互いに作ることになるのではないか、というような緊迫感があった。自我が芽生えたくらいの頃からずっと私は、説明過剰であることを自分に許して生きてきた。それは自分の在り方や思想を誤解されないためでもあったが、対話相手にとっても議題についての私の考えがより明瞭に分かることはプラスに働くだろうと信じていたからでもある。しかし、大人になればなるほど、説明を重ねることが必ずしも和解を助けるわけではない、それどころかより事態を複雑化させたり、悪印象を植え付けたり、あるいは説明されている側が「ただ怒られている」と萎縮してしまったりすることがそう珍しくないことだともわかったきた。それでも、自分の抱いた感情や弾き出した回答の、そのプロセスを明示することをせずにはいられない頑なさが私にはある。そのことが、人間関係を思わぬ形で破綻させてしまうことも少なくないにもかかわらず。
解散の話し合いをしているとき、何度も、私の中に巻き起こったありとあらゆるすべての思考プロセスを具体的に明示しなければ、と脳が回転するが、そういうとき、Nさんが食べ物を享受しているようすを思い浮かべた。すべてを言葉に変換しようと試みる前に、まず、眼の前にあるものをただ感じる、受け取ろうとする、受け取りきれないものもあるとして、そのこと自体をただ見る、そういう沈黙の時間というのを、わざと許すということをやってみようと思った。それは、対話相手に対しても、もちろん自分に対しても。ただ、相対して、言いたくないことや言うべきでないことについては堂々たる沈黙を貫く。決して、自分で自分をせっつかない。それは、これまで口から生まれたかのように自分のこと、ひいては予想される他人の思考プロセスまでをも図々しく説明しようとし続けてきた私にとって、遅れてきた革命だった。私は、語らない、ということを許したのだった。
この連載は一応自分の中でカルチャーレビューを軸にすると決めているので、映画『ナミビアの砂漠』を観て何かを書こうと思っていた。鑑賞後、とてもいい意味で、語るべきことがないと思った。映画の中で、言葉ではなく語られていたことの豊かさをただ受け取った。演出や編集、特に音のミックスなど技術面で言及できることは多く、また多くの人が触れている通り演者についても語れることは多い映画だろう。この映画を軸に様々な観点からオリジナリティを持ってレビューをこさえることは容易い。それだけいい映画だと思った。しかし、流れてくる同映画の感想の多くに、顔色を伺うような、「このように語っておけばセーフだろう」というような毛色がたびたび見受けられることを無視できなかった。なんだか感想がみんな少し気持ち悪く見えてしまったのだ。もちろんこのように、映画の感想文すら俯瞰して見てその滑稽さに気がついてしまう、という心理状態もまさにこの映画に影響を受けてのものだろう。しかし、それを差し引いても私はもう、言わなくてもいいことは無理にひねりださなくてもよい、というカードを持っている。だから、いい映画だったからこそ、特に言及しない、という自由を享受することにする。
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