「戦はクソバカのやること」映画『首』『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』レビュー【戸田真琴 2024年2月号連載】『肯定のフィロソフィー』

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※本連載はTV Bros.2月号YouTube特集号掲載時のものです

 

 北野武監督『首』を観に行くと、タイムスリップした女子高生と特攻隊員のラブストーリー映画の予告編が流れていた。福山雅治の歌声も相まって感動的に演出されていた。あまりにも悪趣味だろうと思い吐き気がした。このことをXで呟いたら、その映画の試写を観たという人から「女子高生が特攻隊は犬死にだと主張する映画でしたよ(意訳)」というフォローは来たものの、反戦の意図が脚本に含まれているにしては予告編で特攻というものをドラマティックに演出しすぎだろうと思った。主題歌も確認したが、あまりにひどい。私は元々福山雅治のことは結構好きな方なのだけど、今回は流石に擁護できない。君を好きなまま死にに行く僕はバカだね(意訳)的な歌詞に対して、はい。クソバカなので今すぐ中止してください。としか思えない。自己陶酔に所以する自己犠牲ほど無駄なものはない。自己犠牲は愛ではない。調べると、原作はTikTokを中心に若者に人気があるそうで、なおさら肝が冷える。陶酔と戦争の関係はあまりに深い。今をときめく人気俳優陣が、大義(煮ても焼いても食えないもの)のために美しく死んでいく様を、これから生きていく若者たちに植え付けるべきじゃない。最悪だ、観てもいないのに批判することを許してほしい。最悪だと思う。KADOKAWAが映画事業を「儲かるもの」のみに仕分けした問題も耳に新しい。映画をつくるのは大変だ。いくら実績を残していても、いくら素晴らしいものを作っていても、なかなか高額の出資はあつまらないと各方面から悲鳴が聞こえる。日本映画にかけられている予算は世界的に見れば信じがたいほど小さい。特攻隊賛美の映画の企画が通る世界なんだ、ここは、と思い、絶望する。落ち込んでいると映画が始まった。痺れるほど美しい画で、とてつもなくグロテスクな死体が映り、北野武の描く時代劇が始まる。
 様々な前評判で聞いていた通り、エンタメ色のかなり強い作品であるという点で、本来好きだと感じていた北野映画のテイストとは異なっているのだけれど、個人的にはそれでも尚かなり好感を持った作品だった。役者陣の堅さと画の美しさでクオリティを担保しながら、配役の妙(加瀬亮演じる信長の3歳下であるはずの秀吉役をビートたけしが演じているなど)、ロマンスの色濃い匂い、教科書で学んだ史実の皮を剥いだらどんな面白みが見いだせるだろうかと実験するようにかき混ぜられた設定に、怖いもの知らずなストイックさを感じた。なによりも映画が面白くなるほうが重要なのだ、という価値観がはっきりしていて、観ていて気持ちがいい。編集も無駄がなく、シネフィルだけではないかなり広い範囲を想定した上で、どのように編集すると観客の心に何が起きるか、ということを研ぎ澄ませて構成している感じがして、かっこよかった。何より良かったのが、一貫して変わらない死生観だった。死の直前に溜めをつくらない。死に物語を背負わせない。物語の都合・キャラクターの都合で死を操作しない。死のシーンは、必ずしも業を負ったキャラクター同士がつくるものではない。戦の中では、そのへんの雑兵も家来も等しく首を奪うチャンスをうかがっている。淡々と人が死んでいく。だけれど、そのことを軽視しているのとも違う。フィクションだからそうしてる、というようにも見えない。首を切ったら死ぬということは現実もフィクションも変わりない。まったく平熱のまま死を撮る。もちろん個人的には、芸術性に重きを置いた北野映画に対する憧憬には暇がないが、それがコミカルに、エンターテインメント然としても尚、死に対するスタンスが変わりない。そこさえ変わらないなら私は、北野映画について、エンタメ性がより増そうと、他の要素が増えようと、規模が大きくなろうと小さくなろうと、変わらず好きだと思う気がした。信長役の加瀬亮が、「全人類の首を落として、そのあと自分の首を落とす、それが出来たら幸せだなあ」という感じの台詞を言う。究極の諦観と愛を感じた。真っ暗でささくれもないつるんとした諦観を裏返すと、真っ赤な漆の愛が塗ってあるような。
 そして、散々「首」を皆が追い求めた果てに、物語が拍子抜けするようにすとんと落ちる。結局生き残るのは痴情のもつれも跡目争いも武士の生き様もすべてを外側から、できの悪いコントか何かのように半笑いで見ていた、百姓出の秀吉である。その役を監督でもある北野武自身が演じていることに入れ子構造のような面白さがある。マクガフィンを蹴り飛ばし、映画という物語の箱を外からあっけなくパタンと閉じる。それを閉じたのもまた、劇中に映っていた北野武本人である。
 『首』は自他ともにコント映画である認識を持っている作品だと思うが、人が無数に死んでいく戦というものを描く作品としても申し分ない。なぜなら、この戦に大した意味などなく、登場人物が全員クソバカである(キャッチコピーは「狂ってやがる」だが、これはすなわちかっこいい意味の「狂い」ではなく、皆とにかくバカだという意味に受け取っている)ということが一貫してブレないところにある。バカがバカ同士で、くだらないものを取り合ってボトボトと命を落としている。そこに対する批評などいらない。物語がドラマティックになる必要はない。秀吉の劇中セリフのごとく、「お前もどうせ死ぬけどな」なのだ。

 アプローチは異なるが、一貫して「殺し合い」の無意味さをはっきりとした意志を持って示した良作に、今非常に話題になっているアニメ映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』がある。PG12の大人向け作品で、キャラ設定が突き詰められていることはもちろん、映画の間合いやカット割りまでシーンの意味を深く読み解こうとする人々に向けて丁寧に作られた作品だった。設定は古くからあるジャパニーズ村ホラーに、戦後日本の敗戦への恥辱と高度経済成長期へ向かう時代の影の部分が色濃く加えられている。大人向けとはいえ、若い世代の生きていく未来(作中の設定は昭和30年代なので、そこから眼差した我々の今生きている現代)への祈りも込められた内容だ。キャラクター人気や展開の面白さなどの要素についてはもっと語っている人がいるので割愛するとして、好感を持った箇所をいくつか挙げてみる。まず一番に、これが水木しげるという戦争をダイレクトに経験し生き延びて体験を語り継いできた作者の意志を責任持って引き継いだ明確な反戦映画だということ。主人公にあたる水木というサラリーマンは、太平洋戦争から生き残った男という設定だ。眠るたびにうなされ、戦場でのエピソードが美化されることなく描かれる。内容は水木しげる著の『総員玉砕せよ!』から引用されていて、そこでは戦争の苛烈さよりも強く、無意味さ、くだらなさ、無駄さを強調する。そして、戦争という直接の搾取だけでなく、その後の高度経済成長が弱者への搾取と一部の権力者たちの得を前提に回ってきたものだということ、その構造は今もなお終わっていないのだということまでフォローする。この構造は家父長制とも密接に繋がっており、舞台である村は製薬会社で名を馳せた大きな一族が支配している設定だ。その家の者は跡目のために争わされ、女性は当主(精神性の醜悪な老人)との子どもを生むために差し出される。さらに製薬会社の繁栄のキーとなった「M」という体力増強剤の作り方についても、さらなる弱者からの搾取構造が明らかになるという、大人向けどころか大人でもちょっと引いてしまうくらいの悲惨な設定が敷かれている。しかしこれは、戦後から今に至る日本の在り方に対する冷静な批判でもあり、反戦とセットで発するべき重要なメッセージでもある。逆に言うと、戦後から現代まで続く権力構造への批判を物語にすると、ここまで残酷なものにならざるを得ないということでもあるのだ。

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