「あなたをどんどん美化してゆきたい/映画『スペンサー ダイアナの決意』感想によせて」【戸田真琴 2022年10月号連載】『肯定のフィロソフィー』

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 自伝、自叙伝、私小説、そういったものの存在について考える機会が増えた。私は現在アダルト女優を生業としていて、来年の1月に引退することを発表済なのだけれど、かつての同業者で引退時に自分の職業体験やそれを越えた自分史とみられるものを書籍にして去った人も何人か思い当たる。アダルト女優というのはそのセンシティブな仕事内容と世間からの見られ方のリスクの高さゆえ、プロフィールや経歴の出し方を事務所や所属メーカーなどと協議して決めることが必須で、その存在自体がデビュー時にある種のキャラクターとして作り込まれるのだけれど、その架空の女の子のストーリーを全うしたまま活動を終える人も、ファンタジーの裏側を明かすことで自分が生身の人間であったことを知らせる行動に出る人もいる。私が引退を決めた時、「もったいない」と引き止めてくれた同業の先輩女優さんから言われた言葉があった。「あなたなら、例えば恋愛の公表や妊娠出産経験を経ての現役続行とか、これまでほとんどのセクシー女優が成し得なかったことを許されながらできる可能性があるのに」。私と、私のファンをしてくれている人たちに対してとんでもなく高い評価をしてくれていることが分かって感激すると同時に、いくら私でも、そして私の親愛なるファンの人達でも、それは無理だろう……と感じた。アダルトビデオはどこまで行っても主に男性の性的興奮をそそるための映像だし、性的興奮というのはほんとうに些細なほころびで失われてしまうもので、どうしたって今の社会に作り上げられる男性性、ジェンダー観のなかでは、堂々と恋愛をして愛を語ることも、その先の物語も、この職業についたまま公にすることはできない。だからといって、こっそり隠れてできるほど、私は器用じゃない。自叙伝の話に戻るけれど、要するに、私のアダルトビデオに興奮してもらうためには、私はもっとファンタジーをやりきらなければならない。この職業のひとたちが、自叙伝を出版できるのは、やっぱり引退するときなのだ。“素の部分が垣間見える”なんてものじゃない、どうしたって私は歩く自叙伝で、それは複雑で、シンプルに奥が深く、知れば知るほど、多くの男性にとって性的な目で見ることが難しくなっていく、それが私なのだ。そして本当は、どんな女の子もそうだったのだ。きっと。

 という話は置いておいて、誰もがいつか自分史を語るときが来るだろう。それは作家にならない人であっても同様で、すでに日々の中で、少しずつこぼしている。友達との会話の中で、最近自分にあった出来事を振り返る時。こどもを見て、自分のこども時代を思い出しながら接しようとする時。親や祖父母と死別して、かれらとの思い出を語る時。自分の生きてきた人生のことは、自分にしか本当にすべてを知ることはできない。いや、自分の記憶や感覚でさえ、完全ではない。事実は、つねに主観によってあなたにとって心地のいいように整備されていくし、そのなかで立ち消えていった真実がいくつあったのか、砂のようにこぼれ落ち続ける記憶の中からは、もうあなたにはわかりやしない。自分のすべてを語ろうとするとき、あなたの口から出るその物語は、ほんとうに真実の物語なのだろうか? そして、自分の記憶さえもちゃんと疑っている人が、この世界にどれくらいいるのだろうか。たまに、途方も無い気持ちになる。
 友達から誰かの悪口を聞く時、第一に目の前の人に寄り添いたいという感情を置くようにしてはいるけれど、どこかで、この話をどこまで信じて良いのかわからない、という気持ちにもなる。目の前で語る彼女の中で、その悪口を言われている人は、悪人の役にきちんとはまっている。記憶というのは、客観的事実のほか見ている人の感情も混じっている。
 自称している性格と客観的に見た性格が矛盾している人も多い。きっとこの人の生きる、この人の物語の中ではこういう設定なんだな、と理解しながら聞くようにしている。昔から、人を怒らせない術ばかり身につけようとする嫌ながきだったけれど、こういう状況の時、そのスキルは役に立つ。その人の語るその人の話を、なるべく他の価値観を無視して聞き取って、その設定と矛盾しないようにその人というキャラクター自身を扱うようにするのだ。私は、あなたの描く物語に、今目の前にいる間は、加わります。という誓い。それが私の歪んだ優しさであり敬意なのだ。
 時と場合によって、真実よりも大切なことがある。それは想像力。その人のファンタジーを守ること。ときに独りよがりなファンタジーに影響が外にはみ出して被害者を産むこともあるけれど、ファンタジーがその人自身を守ってくれていることもとても多い。その人の描く自分自身の物語を知ろうとすることは、その人が本当はどうありたいのか、を知ることなのだ。

 そう、事実と異なるかもしれないけれど、誰かの美しさを描くためにつくられた、とてもいい映画を見た。公開中の、『スペンサー ダイアナの決意』という故ダイアナ元妃をモデルにした物語だ。本編冒頭で、これは“寓話”だとしっかりと注釈が入る。パンフレットによると、宮廷の中で起こることは一般市民にはいくら調べても知ることが出来ない。だけれど、だからこそ、知ることのできないその余白に想像力を働かせる余地がある、と。そうしてつくられたこの映画は、ダイアナ妃が宮廷を離れることを決意するまでのクリスマスの3日間を美しい映像で寓話にしている。
 パパラッチに付け狙われる不自由な日々、融通の効かない王宮内の暮し、身の回りの世話はするけれど「会話」に応じてはくれない使用人たち、不倫相手と同じアクセサリーを気づかずに贈ってくる夫。本編はダイアナのストレスがすでに限界に達している状態から始まるため、我々はほとんど錯乱状態の彼女の視点で物語を辿ることになる。ここで妙なのが撮影で、とにかくカメラワークは一貫して均整がとれていて美しいのだけれど、度々ダイアナの幻視や想像、記憶の世界とシームレスに行き来するのだ。よくある錯乱状態の人の視界を再現するようなわざとらしい歪みなどはなく、見えている美しい世界が、そのままダイアナの脳内とすり替わる。そういった体験の積み重ねが、やがて自分の出自を振り返り宮廷で失いつつあった自己を再獲得しようとするダイアナの思考の旅とひとつになって、大きなカタルシスを産む。

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