高知 大方 クジラがあくびをする街で 前篇【2022年10月 世田谷ピンポンズ連載「感傷は僕の背骨」】 

文/世田谷ピンポンズ 題字イラスト/オカヤイヅミ 挿絵/waca

 

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「そんなに行きたいんだったら、明日行っちゃおうか」

近所の喫茶店で珈琲を飲みながら君が言う。

「えっ明日なんていきなり無理だよ」

「いいじゃん。行っちゃおうよ。こういうのは思い立ったときに行った方がいいんだよ」

「でもあかつき館、明日、休館日みたいだよ。せっかく行くなら館内が観たいし、万全を尽くしたいなあ」

大方あかつき館は僕の敬愛する私小説作家・上林暁の文学館だ。

君が急に何かを提案するたび、首肯する数倍ものスピードで僕はいつも及び腰になる。できない言い訳や、その提案の自分が嫌だと思う部分ばかりを挙げ連ね、ときに攻撃的にさえなる。それで空気が悪くなることが沢山あった。

何かを先延ばしにすることは僕の悪癖のひとつだった。もっとも僕の頭の中はこうだった。予定を先に延ばすことで、その日を楽しみに生きていくことができる。何より一旦、煩わしさから解放される。そして何より、いま何かをした気分になる。実際はいまをただ棚上げにしたに過ぎず、冴えなくもたついた現状維持に他ならない。

ホテルや高速バス、新幹線の予約、時刻表の確認、靴下、下着、上着にTシャツ、旅支度の諸々を考えると、煩わしくてしょうがない。そもそもお金はあるのだろうか。いつか来るであろう「万全」を待っては、そんなものが決して来ないことはずいぶん前から心の底のほうではわかっていた。けれど、いつも僕はグズグズするのだった。

反面、実際に明日、高知にいる自分を想像すると不思議とわくわくする気持ちもあった。表ではあいかわらずグダグダ言い訳じみたことを述べ立てていながら、腹の中では、段々、というか、益々君の提案に傾斜している。君の提案はいつも、僕の重たい足取りを少しだけ日常から非日常の方へ(それは本当はいたって現実と地続きのことなのだけれど)、前にすすめてくれるような高揚感があった。そうやって動いたときに何かが動き出すことが多かった。背中を押すのはいつも君だった。僕は背中を押されてつんのめることばかりを恐れながら、いざ実際押された先に待っている好ましい結果を甘受するのだけはうまかった。ずるさが一周まわって、なぜか純朴めいたものになりかわり、なんだか得をするという寸法だった。

喫茶店を出て、自転車を漕ぐ。底冷えした京都には強い風が吹いている。追い風どころか冷たい向かい風が全身に吹きすさぶ。フードをすっぽりかぶり、君の方を振り向く。

「やっぱり行こう。高知」

だから最初からそう言えっての。

 

京都駅烏丸口を朝に出発した高速バスは六時間ほどで高知駅へ到着した。そのまま市内で一泊し、次の日にあかつき館に向かうことになった。とにかくその外観だけでも観たかった。

大方あかつき館は、市内からさらに特急南風で一時間四十分ほどの黒潮町にある。

最寄り駅の土佐入野は無人駅で交通の便も悪そうだったので、小回りが利くように、高知市内からレンタカーで向かうことにした。市内を抜け、高速道路を進むにつれ、山に囲まれた谷川風景が広がっていく。初めてなのにどこか懐かしい風景が続く。四万十川の澄んだ流れ、営業しているのかどうかも分からない茅葺のドライブイン。道の駅には数台の大型バスが停まっていた。二時間ほども走っただろうか、風景がすっかり海沿いのそれに変わったころ、黒潮町に入った。潮の匂いが一等懐かしいのは、山の街に育った僕にとって、毎年夏になると訪れていた海沿いの街の思い出が特別に淡いものとして残っているからだろう。

当然、大方あかつき館は休みだった。分かっていたことではあるけれど、諦めきれずに建物周辺をうろうろする。入口の閉じたガラス扉に顔を貼り付けて、少しでも中の様子を見ようとする。完全に不審者だ。二階の展示へと続く奥の踊り場のうしろ、壁一面に広がるガラス窓が冬の低い日差しに照らされて、きらきら輝いている。入れないからこそそうなのか、より一層、尊い場所に感じられた。入野松原の向こうにはだだっ広い太平洋が広がっている。海沿いの運動公園の敷地を走って左手、海と川が交じり合うところに牛が寝そべったような形をした小山が見える。公園を抜けた先に上林暁の墓所がある。そこにかつてあった誰かの時間に静かに寄り添う。ただのファンの聖地巡礼かもしれないけれど、やっぱり来てよかったと心から思った。

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