横浜 桜木町 全然知らない球団の試合のチケットを買った【2022年6月 世田谷ピンポンズ連載「感傷は僕の背骨」】 

文/世田谷ピンポンズ 題字イラスト/オカヤイヅミ 挿絵/waca

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全然知らない球団の試合のチケットを買った。

 

その頃、僕は大学の長い夏休みのすべてを実家で過ごし、休みが終わっても一週間に一回は帰省していたから、実質、地元に片足を突っ込みながら上京していたようなものだった。友達もなく、バイトもしていない独りぼっちの大学生にとって、眼前に広がった膨大な時間はどうにでも使える無尽蔵の自由であったし、何より終わりの見えない退屈そのものだった。

テレビ番組はそんな途方のない時間の海を乗りきるための一艘の船だった。三本パックのコーティングを破る。何とも言えないビデオテープの新しい匂いがする。妙にサラサラしたそれを常にビデオデッキに突っ込んでおき、右手にはいつもリモコンをつかんでおく。好きなアイドルのCMが流れた瞬間に録画ボタンを押せるようにしているのだ。ものすごい集中力と反射神経でもって件のアイドルの顔がテレビに映った瞬間、ボタンを押す。鈍い音を立ててテープが回り出す。録画が開始されるまでのタイムラグのために結局、半分も撮れない。それでもその作業を延々とやっていた。部屋にはビデオテープの黒い山が積みあがっていき、その一つ一つに律儀にタイトルをつけていた。ツメを折ってはセロハンテープを貼って。三倍モードで六時間分パンパンに詰めこんで。

大学生になるとお笑いの番組を録画する頻度が増えた。新垣結衣が出演していた『落下女』、堂真理子アナウンサーが出演していた『草野キッド』など、あいかわらず好きな女性タレントが出演する番組はもちろんのこと、ダウンタウンの出演する番組は必ず録画していた。『いろもん』のダウンタウンゲスト回をちゃんとリアルタイムで録画していたこと、それがあの頃の自慢だった。しかし自慢する相手だけがいなかった。

『リンカーン』の企画で松本人志が横浜スタジアムで始球式をする。そんな告知を見て、いてもたってもいられなくなり、手はいつのまにかチケット購入のページを開いていた。始球式はもう明日だ。動作の遅い実家のパソコンが光る。地元の少し早い秋を虫の声が教えてくれていた。

 

横浜スタジアムに初めて行ったのは高校生のころだった。大歓声と共に、その街出身のフォークデュオが自転車に乗って、大きなステージに向かっていく。軽快なタンバリンのリズムと共に太陽がカンカン照らす頃に始まったライブは、気がついたらいつのまにか夜の帳がおりて、スタジアムには塩気を含んだ風が強く吹いていた。歌手がジャニス・ジョプリンのことを歌う姿がスクリーンに映る。潮風が前髪を揺らしている。真っ暗になったスタジアムに灯された唯一の光がステージ上の彼を照らし、歌声だけが響き渡る。それは夢だった。確かに同じ地平に存在する、しかし遠い憧れそのものだった。

特急電車が北へ進み、光がまばらになっていくにつれ、地元に近づいていく。最寄り駅の駐車場に停めていた親の車の助手席のシートに触ると、冷っとした感触が身体を貫いて、あっというまに自分を現実に戻した。

 

 

「桜木町っていう横浜の街が好きなんだけど、今度二人で行ってみようよ」

人は沢山いるのに一切、音のしない学生寮の脱衣場で必死にガラケーに打ち込んだ。

彼女は埼玉の専門学校に通っていて、高一の頃に別れた人だった。大学生になって、友達のいない寂しさを忘れたいがために地元の同級生に暇さえあればメールしていたころ、彼女ともまた連絡を取るようになった。

「え、行ったことない。楽しみにしているね」

サイレントスタイルでこっそりガッツポーズをする。しかし僕の動きをそもそも気にする人間がこの寮にはいない。この寮に住む大学生のほとんどがコミュニケーションを諦めたかのように外部を完全にシャットアウトしていた。そんな環境で過ごす日曜日は地獄だった。物音のしない学生寮はまるで監獄みたいだった。それなのに風邪をひいてベッドに伏せていると、部屋の前の廊下を延々とジョギングする人間が現れたりもした。間断なく続くジャージの衣擦れの音にいよいよ我慢がならなくなり思いきって注意すると、信じられないくらい素直に謝られた。情緒が分からないから怖かった。誰のことも理解できなかった。寮に住んだ二年の間、寮生との数少ない会話のひとつがそれだった。

そんな僕にとって彼女との約束は太宰治にとっての夏に着る着物、約束の日曜日までは生きていける。それまでの週末はやっぱり実家に帰ろう。実家で乗りきろう。そう思った。それが間違いだった。

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