おとどちゃん連載・最終回「Nem’oubliez pas」

高知県桂浜にある小さな水族館から大きな声で、いきものたちの毎日を発信中!

広報担当・マスコットキャラクターのおとどちゃんが綴る桂浜水族館の日々、これにて最終回!

目まぐるしく変わるハマスイの日常は、連載スタートからブランク期間を経て大きく変化しました。盛田のおんちゃんの今後も気になるところ…ほんと、ハマスイってナマモノですよね。このエッセイが琴線に触れたなら、ハマスイのいきものたちに会いに、レッツ高知!

以前のお話はこちらから。

https://tvbros.jp/uncategorized/2024/03/08/74655/

 花冷えの季節が好きだ。春先の雨には、他の季節にはない独特な魅力がある。

 令和七年三月二十三日、高知地方気象台が、昨年に続き、全国で最も早い桜の開花宣言を出した。前日に今シーズン初の夏日を記録し、開花宣言日も気温が二十四度まで上がったことで、成長が一気に進んだという。あたたかな便りに、県民の誰もが酒瓶を抱えて踊ったに違いない。なにかと理由をつけて飲みたがる酒の国の民たちが、花見を口実に宴の準備にとりかかった。しかし、春が訪れたのは束の間のことで、ここ南国土佐でもすぐにまた厚手の上着が必要となった。きっと、桜の開花とともに冬眠から覚めた動物たちも、首をかしげて二度寝を決めたことだろう。どっちつかずな日々は、片思い同士のふたりが繰り広げる青春のようで、そのじれったさが歯痒くてたまらない。花曇りが続き、緩やかに時間が流れる。細い雨が降ったり止んだりを繰り返して、無垢な蕾みと淡い紅色の花弁を静かに弾いている。

 百六十四ページ。

『私の目には、雨は雨にしか見えない』

 ここまで読んで、私は本を閉じた。約二十年前に発行されたそれは、ネットで見かけた時からずっと気になっていて、最近やっと中古で買ったものだ。どのページにも目立った傷や汚れはないけれど、開くたびに懐かしく甘臭い古びた匂いがした。これこそが中古本の醍醐味だ。まるで嵐が過ぎ去った浜辺に散乱するがらくたみたいに、誰かに手離されるその日まで、誰かに愛されていたからこその孤独を纏っている。今、静かに私の両の手に収まっている十五ミリ。この本を読み始める前に、一度最後のページを見ているからわかる。まもなくひとつの物語が終わる。嬉しいような寂しいような、不思議な感情に包まれる。私にとって読書は、例えるならば、切符を買って乗り込んだ電車。乗客はもちろんひとり。適当に座った席で車窓に映る街をなぞる。描かれたいのちは、ひとつひとつが繊細に絡み合っていて、その営みは途切れることなく変化する。物語に揺られて、はじめて気がつく。私はそこから一歩も動いていないのに、着実に目的地へと向かっている。早く最終駅に辿り着きたいような、このままずっと揺られていたいような、そんな感覚。夢うつつ。

 ふと、オルゴール調の館内BGMが鮮明になった気がした。窓の外を見ると、糸雨はいつの間にか止んでいて、薄い雲の隙間から淡い陽の光がこぼれ落ちてきていた。私は、冬の終わりと春の始まりに微睡みながら、自分のじれったさを静かに呪った。

 

 桜の開花宣言からちょうど一週間後、浦戸小学校に隣接している「うらど龍馬保育園」で「おわかれのつどい」と題した閉園式が行われた。

 昭和二十三年、青年団によって設立され、七十七年の歴史を持つうらど龍馬保育園は、四十五年に現在の場所に移転し、長く地元民に愛されてきた。しかしながら、近年の少子化による園児数の減少や近く発生するといわれている南海トラフ巨大地震に関する課題などを解決することができず、令和七年の三月末をもって閉園することとなったのだ。激動の昭和時代、この地で開園してからずっと、保育園は地元民の希望だった。私が知るここ十年でも、定期的に園庭を開放したり、園外保育にも力を入れ、積極的な地域交流を通して人と人とのつながりを深めてきた。春の遠足には、園児たちが水族館に遊びに来てくれ、七年前には、桂浜水族館が全面協力して園内水族館「うらどまりんらんど」を開設した。まりんらんどがオープンしてからは、水槽のメンテナンスや園児たちとの学習交流のため、飼育スタッフが登園することもあった。

 おわかれのつどい当日、十時から開催された閉園式では、理事長や保護者の挨拶のあと、園児たちによるお歌が披露された。みんな小さな顔をくしゃくしゃにして、声を振り絞って一生懸命に歌っている。その姿を見守る大人たちが静かに涙を拭う。無傷では生きられない春に、鼻先がつんと痛んだ。誰にも気づかれないように喉の奥の熱を飲み込んで、園庭の方に目をやる。丘の上の遊具にはテープが巻かれていて、風に揺られる「あそばないでね」と書かれた張り紙が、子どもたちに手を振っているように見えた。四十分ほど行われた式が終わると、続けて茶話会が開かれた。園児たちが元気に庭を駆け回る中、大人たちは、分厚いアルバムをめくってセピア色の写真に思いをはせたり、時折、涙を拭いながら思い出話に花を咲かせていた。舞っている蝶々を追って見上げた空はとても澄んでいて、柔らかな雲がゆっくりと流れている。冷たい風が頬を掠め、誰かが使った紙コップをテーブルからさらって地面に転がした。遊具のまわりで、ひとりの飼育スタッフが小さな子どもたちと追いかけっこをして遊んでいる。

「元気やなあ」と、先輩スタッフが微笑んで肩を揺らした。午前十一時五十分。朗らかな陽の光が皆を包む。最後の挨拶が終わり、先生や子どもたちに手を振る。帰りに寄った小学校に植えられた桜の木は憂うように花びらを散らしたけれど、その先の青のキャンバスに描かれた一本の飛行機は、迷いなくまっすぐにのびていた。

「おとどは今年で四年生になるがやったっけねえ、上級生の仲間入りやんか。早いもんやねえ」
館長に頭を撫でられながら細い路地を歩く。

 子どものときのこと、大人になっても忘れないでいられるかな。大好きだった遊具、先生に読んでもらった絵本、友達とつないだ手、転んで擦りむいた膝、寂しくて泣いた今日の日のことも、全部ぜんぶ宝物になりますように。子どもたちの心にできた瘡蓋が、どうかどうか、傷跡として残りませんように。

 そう強く祈って、歩いてきた道を振り返った。

「おとどちゃん、なにしゆうがあ。行くぞねえ」

 いつの間にか少し先にいた館長に声をかけられ、小走りで駆け寄った。
ああそうだ。水族館に帰ったら、読みかけの本に別れを告げよう。脱がしていたカバーを着せて、本棚に飾ってあげよう。あの本の孤独は私にはわからない。永遠に、絶対に、わからないのだ。

 令和七年四月一日、桂浜水族館は創業九十四年を迎えた。これまで一線で活躍してきたスタッフが卒業し、メンバーががらりと変って新体制となった。人工透析を受けながらも、週に二度は出勤して飼育業務に勤しんでいた盛田のおんちゃんも、体調と体力の面からみて、このまま仕事を続けるのは難しいといって退職した。今年の夏には故郷の北海道に帰るという。体調が悪化した時に比べると元気になった方ではあるが、内臓が満身創痍なのには変わりない。あとどれほど生きられるかわからない彼のことだ。今生の別れにならないとは言い切れない。だから、これまで彼のお世話になった卒業生や関係の深い人たちに声をかけて、五月の半ばにお別れ会を開催することにした。案内を出した卒業生のひとりから、お礼とともに私たちが変わりなく過ごしているか尋ねる返信が届いた。メンバーの入れ替わりに所属部署の変更、各々の仕事のし方も見直され、スローガンに掲げている「なんか変わるで」が皮肉に感じるほどにお変わりありまくりだ。部署異動といえば、これまでも、飼育間で担当生物が変わることはよくあったが、最近では、飼育スタッフから事務局スタッフに変わった者もいる。一時的な異動ではあるものの、これは改革十年目を迎えての新しい取り組みだ。
そうして、それぞれの青春がまた転がりだした頃、桜の木の枝に若葉が芽吹き始めた。色とりどりの真新しい長靴が眩しい。

「おとどちゃん、僕、今日が入社三年目の記念日です!」
一足お先に、昨年の十一月から事務局に異動となり、館長や先輩スタッフに扱かれながら、ただいま絶賛、社会勉強中のスタッフ「ゆーだい」が、目の前で誇らしげにしている。どうしたって寝坊癖は直らないし、「メールの内容を確認してほしい」と持って来るパソコンの画面上には、いつも怪しい日本語が並べられている。血の気が多く、若気の至りでは片づけられない危うさを持っていながら、眠れぬ森の彼には、他の子にはない独特な魅力もある。

「おとどちゃん、ナガックーのところに行きましょう! 僕が記念日なこと教えたらな!」

 ゆーだいに誘われて、先日「ナガックー」と名付けられたばかりのミナミアメリカオットセイの赤ちゃんがいる飼育エリアへと向かう。ナガックーは、昨年七月に「キネン」と「クオ」の間に誕生した二頭目の子で、一頭目の子が生後間もなく亡くなってしまっていることや、母親のクオが高齢かつ視力が著しく低下していることから、産まれてすぐに人工哺育個体となった。ナガックーという名前には、初代館長「永國 亀齢」をはじめ代々この水族館を守り抜いてきた「永國」の名と、「永く生きてほしい」「長く愛されてほしい」という願いが込められていて、新たなスタートを切る桂浜水族館の大きな夢と希望が詰まっている。

「ナガックー!!」
ゆーだいが名前を呼びながら飼育エリア内に入ると、それまでアシカたちといっしょに泳いでいたナガックーが、水中から勢いよく飛び出して、彼のもとへやって来た。

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