「笑いにまつわる名言たち」天久聖一の笑いについてのノンフィクション【笑いもの 天久聖一の私説笑い論】第17回

 

第17回 笑いにまつわる名言たち

 

笑いに関する名言や格言は、枚挙にいとまがない。

有名なものをいくつかあげると、まず桂枝雀が提唱した「緊張と緩和」がある。人は緊張状態から解放されることで笑うという、笑いの構造を極限までシンプル化したものだ。

漫才でもコントでも、基本は日常的な会話なり設定から入り、それがどんどん異常に転じることで緊張を生み、オチで緩和する。

もちろん、その中には細かいボケとツッコミがいくつもはいり、そうした緊張と緩和の連なりが全体のグルーヴ感を生む。上手い芸人や役者さんはその緩急を、客席の反応を体感しながら調整していく。テレビでお笑いを観ているとネタの出来に評価がいきがちだが、ライブを観ると、それをどう演じるかという芸に目がいく。

デビューこそマンガ家だったものの、いつの間にか舞台の笑いにも関わらせてもらうようになり、結局、客席から笑いを取るのはネタではなく、「間」と「言い方」だけだと思うようになった。

例えば、上司から無理難題を出された登場人物が「え?」と返すだけでも、上手い役者がやると笑いが起きる。的確な間と声量で発せられる「え?」は、そのキャラクターの性格や背景をズバリ表す。

しかし、それではまだ笑いに届かない。さらに上手い役者は、そこに客席へのサジェスチョンを巧みに織り込むのだ。つまり自分の役からわずかに離れ、「今の僕、どんな気持ちだと思います?」という言外の訴えを投げかける。それは微かな表情の歪みであったり、視線の泳ぎ方であったり、コンマ数秒の間や声の消え入り方だったりするが、客席はそのニュアンスを敏感に察し、そこでようやく「君もたいへんだねえ」という同情の笑いが起きる。

この瞬間、緊張と緩和はほぼ同時に起きていると思う。さすが稀代の落語家が経験から導いたセオリーだけあって、笑いを演じるものにとってこれほど実用性のある法則はない。

「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから観れば喜劇だ」──言うまでもなく喜劇王チャップリンの名言で、これほど深く、そして誠実に笑いを言い当てた言葉はないと思う。

先の「緊張と緩和」が演者の金言だとすれば、こちらは作家のための金言かもしれない。どんなテーマでも視点を変えるだけで、喜劇にも悲劇にもなり得るという考えは作劇の基本となるし、スランプに陥り、遅々として進まない原稿に頭を抱えたときも、そんな自分を喜劇的に捉えられれば、いずれ突破口は見つかるだろう。

チャップリンの長編にはもちろん悲劇と喜劇、両方の視点が備わっているが、ただ構造は彼の名言の真逆になっている。チャップリンの映画は細部で笑わせ、全体で泣かせる。それが人生と映画という現実と虚構の反転だと思うと興味深い。

さらに、チャップリンの映画は悲劇と喜劇が温かい達観で包まれ、それがラストのなんとも言えぬ感動につながっている。感動とはさまざまな感情が複雑に交じり、なんらかの閾値を超えることで、端的にそれは涙という生理現象として現れる。悲しみに由来しない涙は笑いを超えた快感だ。

チャップリンのラストはいつも二つの孤独がつながる瞬間で終わる。それは緊張の連続を生きる人間にとって、究極の緩和かもしれない。

チャップリンの名言を思い返すとき、いつもついでに(というと失礼だけど)思い出すのは三谷幸喜氏がビールのCMで言った言葉である。

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