「画餅『サムバディ』優れたコントがもたらすリッチな時間喪失」天久聖一の笑いについてのノンフィクション【笑いもの 天久聖一の私説笑い論】第10回

笑いもの 第10回

 

画餅『サムバディ』

4月14日〜17日、下北沢「劇」小劇場にて上演。

出演=浅野千鶴、生実慧、神谷圭介、つかさ、名古屋愛、八木光太郎。

※画餅『サムバディ』の配信は5月13日公開に向けて準備中です。最新情報は画餅オフィシャルアカウント、または主宰者神谷圭介ツイッターをご確認ください。

 

コントユニット・テニスコートの神谷くんが立ち上げた新たなソロプロジェクト「画餅」。その第一回公演『サムバディ』を観てきた。

90分の公演時間は3本の短編で構成されていて、どの話もクオリティが高く素晴らしかった。以下、多少ネタバレを含むけれど、それくらいで損なわれる作品ではない。

 

まずホンが良かった。

出だしはリアルな芝居で日常を立ち上げ、次第にコント的な非日常が浸食してくる。事態が進行(悪化)するにつれ、芝居は熱を帯び緊張は高まる。

そこにすっと、意外な展開が挟まれる。それは概ね登場人物がひた隠しにしていた秘密の漏洩だったり、嘘の発覚だったりする。観客は虚を突かれ、いままで観てきたストーリーにまったく別の側面があったことを悟る。

そこから客は身を乗り出して、登場人物ひとりひとりの、台詞や仕草の裏側にある真意を読み解こうと集中する──人がドラマを観て時間を忘れるのはこういう深読みの心理が働くからだろう。『サムバディ』では、各話でそういうリッチな時間喪失があった。

 

ホンの軸足は笑いに置きながら、いつの間にか重心移動する。

たとえば三本立ての一話目は、別居中の夫婦が息子の留学について言い争うという、まるで海外のコメディドラマのような設定だが、妻が持ち出す留学話は、息子のトランポリンの才能を伸ばすためフランスに行くというものだ。ちなみに息子はまだ五歳だ。

トランポリンという言葉の響き、マイナースポーツへの偏見という分かりやすい笑いから、物語の中心は夫婦の身勝手さ、その間に挟まれた息子の闇へと移っていく……。

 

二話目は自分にしか見えない親友、イマジナリーフレンドとの切ない別れを描くもので、これは途中からバシバシ明かされる多重構造の種明かしが面白い。メタな展開に振り回される登場人物が健気でかわいい。

 

三話目は他人の通夜に忍び込み、寿司を食べるカップルの話。これは導入部が秀逸で暗転中のダイアローグによって、照明がついた途端最初の笑いが起きる仕掛けになっている。小悪魔役の女優さんがとても乗って演じているのが伝わった。

 

面白ワードやあるあるネタを散りばめながらも、中心はつねに愚かな人物の「機微」にフォーカスされている。誤魔化しの仕草、戸惑いの表情、艶っぽい視線、わざとらしい嘘……抜け目ない役者なら絶対食いつくであろうサブテキストが構造的に練り込まれている。これは神谷くん自身が優秀な演者だからだろう。

 

神谷くんが本来所属するテニスコートは、武蔵美出身の三人からなるコントグループで、数年前単独ライブのアフタートークに出て欲しいとのオファーを受けた。

そのときは未見だったためお断りしたが、メンバーが僕のファンだということでじゃあ一度拝見させてくださいとライブを観に行った。2018年の「浮遊牛」という公演だった。

おお、これは!と、思わず心でガッツポーズを取ってしまうほど面白い舞台だった。さっそく終演後の楽屋で次回のアフタートークを約束した。

 

テニスコートの作風はナンセンスとベタがうまく融合し、絶妙な間の掛け合いや元ネタのセンスが抜群だった。芸人さんのコントとは毛色が違う、シティボーイズの流れを汲む演劇系コントだ。

実は、僕はシティボーイズライブの作・演出を一度だけやったことがある。2011年、震災があった年だからよく覚えている。というか、そんな大仕事忘れるはずがない。語り出せばキリがないので先に進もう。

 

いまに続く知的な演劇コントの源流は、シティボーイズを中心にしたラジカル・カジベリビンバ・システムにあり、さらに遡るとベケットを手本に日本の不条理演劇を確立した別役実につながるはずだ。

別役実の舞台は素舞台に立つ一本の電信柱からはじまるイメージがある。いつか読んだ同氏の著作では、コントは舞台に転がるひとつの死体からはじまるべきだと書かれていた。

演劇系コントに与する者はそんなスタイリッシュな、無機質な夢に憧れる人たちだと思う。転がる死体が自分ならそれは完璧だ。

 

ただ、現在世間でコントと言えば、やはりテレビで観る芸人コントだろう。ロバートもチョコプラもシソンヌも面白い。とくにシソンヌは毎年の単独を心待ちにしているほどファンだ。

東京03は演者とキャラの魅力が理想的で、コントというより喜劇の風格がある。昨年のキングオブコントで優勝した空気階段の狂った世界観は、人類滅亡後のメタバースでリピートする悪夢みたいで最高だった。

 

いったい演劇コントと芸人コントの違いはなんだろう。印象でいえば、芸人コントはウケることを至上命令にしたキャラクターもので、演劇コントはリアルな芝居で構造的な笑いを狙ったものに感じる。が、もちろんそんな単純なものではない。もともと両者は比較できるものではない。その原因はコント自体の出自にありそうだ。

 

コントはフランス語で寸劇を意味し、日本では昭和初期の浅草で盛んだった軽演劇が始祖となるらしい。戦後、その軽演劇の役者がストリップ劇場やキャバレーの営業で演じた短い演し物が、いまのコントへとつながっているという。

だからコントはもともとジャンルとしてあったわけではなく、食い詰めた芸人や役者の窮余の一策だったと言える。

 

コントが本格的に世間に認知を得たのはテレビの登場からだろう。少人数かつ短時間のフォーマットがちょうどテレビサイズだった。ただし黎明期は芸人ではなく、軽演劇から流れてきた喜劇役者やミュージシャンが主な演じ手だった。笑いの主役がクレイジーキャッツやドリフターズだった時代がたしかにある。

 

芸人が自覚的にコントに取り組んだのは、テレビの需要に駆られてという理由が大きい気がする。

また、お笑いブーム以降、コントは若手芸人にとっては漫才以外の選択肢にもなった。漫才はつきつめると技術だが、コントは発想で勝負できる。強烈なキャラクターが創造できれば、世間に名を売ることもできるだろう。こうして芸人コントはあくの強い独特の進化をみせた。

 

一方、演劇系コントに革命をもたらしたシティーボーイズは小劇場出身で、同期には風間杜夫がいた。ということは、つかこうへい全盛の時代で70年代演劇ブームに乗り切れなかった若手役者がコントに流れてきたと見るのが妥当だろう。

シティーボーイズは、小学生のとき『お笑いスター誕生』で初めて観た。芸人主流のエントリーの中、まるで客席を気にしない佇まいや知性のにじみでたネタが強烈な印象を残していた。

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