「神様の時間にほど近い」【戸田真琴 2021年9月号連載】『肯定のフィロソフィー』

 少女写真家の飯田エリカさんとともに「I’m a Lover, not a Fighter.」というグラビア写真制作のプロジェクトを始めてから半年が経つ。それまでも映画や単発の写真展など、自らが映る側ではなく演出側にまわってモデルさんに身体表現を託すことはやってはきたものの、まだまだ勉強の日々である。自分は元来他人というものに対してつねに自信がなく、いつも自分の言葉や存在が相手を不愉快にさせているに違いないという極端な思考に囚われているため、してほしい仕草一つ、着てほしい衣装一つ、見せてほしい表情一つ伝えるのにも胃に負担をかけることになる。ああ、この指示が不愉快だったらどうしよう…。私だったらできるけどこの人はそういうのが本当にだめかもしれない。一つ要望を伝えるたびに、今の一言で永久に縁を切られてしまうかもしれない、というところまで心配しては必死で平静を保っている。そんなことはさておき、最近見たほんとうに素晴らしい芝居の話をしよう。濱口竜介監督の最新作『ドライブ・マイ・カー』。前作の『寝ても覚めても』についてもこの連載で書いたことがある。あの時の自分の言葉のことは珍しく気に入っていて、それからずっと監督の作品には感謝をしている。

 

 試写の日程すべてに用事が入っていたり、一度チケットをとって待ち合わせをしたにもかかわらず上映開始10分前まで眠りこけて見逃したりと、かなりぐだぐだな日々の中で上映が始まった作品だけれど、なんとか粘り強くこの映画との縁をつなぎとめた。二度目の鑑賞の飯田さんと共に、渋谷シネクイントの赤い椅子で見る。魅惑と未知に満ちたファーストカットから辿るすべてのカットが静謐で、情報と無言・言葉と無音のコントラストが数㎜単位で完璧な線を引き、分けられている。音の持つ沈黙と、映像の持つ沈黙がそれぞれの役割を丁寧にこなし、主人公が自分自身の痛みに向き合うまでのプロセスをすばらしく正確に描き出している。本当に上手い運転は車に乗っているということを忘れる、ということが語られるシーンがあったが、3時間あるこの映画は映画であることを忘れさせる種類の真摯な上質さがあった。見終わる頃には、赤い椅子も、手前のフックにぶら下げたかばんも、メガネのレンズもすべてが消えているようだった。――とは自分の個人noteにメモしてあった感想だけれど、それから濱口監督のインタビューなどを読んでさまざまに考えることがあった。この映画の中には、たしかに役者という役割をしている人のもとに神様が降りてくる瞬間が幾つかある。それはしばしば、監督とそのチームの精鋭たちのつくりだす空気、細やかな気遣いや積み重ねた役者との信頼関係に起因するすばらしい仕事というもので、それは信じるものが丁寧に信心深く日々を生きた末に神様にふれる澄んだ一瞬に出会うかのように、細かな折り目が重なり合い続けていつか巨大な曼荼羅を描くように、とにかく細やかで丁寧な仕事というものはしばしば大いなる何かへのあかるい道を作り出すことがある。日々の丁寧さをおざなりにしてばかりの私にとっては多少胸が痛いが、がさつさに邪魔されながらも、私もそういう丁寧さの行き着く先に何かがあるのだということを心では信じている。

 

 劇中で、岡田将生さん演じる高槻が、主人公・家福の死んだ妻・音が生前話していた内容について車内で話すシーンがある。家福が音から聞いていた夢の話の続きが、静かに快適に運転される車内で語られる。その時の高槻の口調やたたずまいを、どういった言葉で形容したらいいのかずっとわからない。言葉を探そうともしなかった、ということにさえ、今これを書きながら初めて気がついた。世の中には、言葉が勝負を挑む前に敗北するような、そこに勝負があったことにさえ気がつかないままほどけて消えてしまうような、そういうシーンがある。それはセリフがあろうと、歌や音楽があろうと、沈黙というものにとても近い。神様がおりてくるときに感ずるのはこういうシンプルなことかもしれないと思った。

 

 ときに、演者は監督のたどり着こうとした地点よりはるか彼方から神のように降りゆくときがある。予想もしなかった、想像の可能だった範囲を超えた瞬間に出会うことがある。少ないながらも、私もそういう瞬間に出くわしたことがある。「I’m a Lover, not a Fighter.」の2人目のモデル・長島実穂さんの撮影をしていた際、飯田さんと私との3人で廃墟の一部屋を締め切って、「撮りたかったもの」がおりてくる瞬間を待った。次第に、奇跡が起こらないことに苛立つように実穂さんは、銀杏BOYZを流したり、私が実穂さんから受けた印象を起こした詩を読み上げたりしながら、だんだんと奇跡をその手で手繰り寄せていった。これもまた形容しようがないのだけれど、最後、彼女の声がざあざあぶりの手持ち花火のように光の屑になり、廃墟の床にはじけて消えた。それは私たちのたどり着こうとしていた場所とはまた違う、まったく初めて見た、遠くの宇宙で星がひとつ消えてしまうような、それがまた始まりであるような、観たことないけれど懐かしい爆発というものだった。

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