笑いもの 第二回
高校を卒業後、地元の四国香川県を出て、神戸拘置所で二年間ほど刑務官、つまり看守をしていた。
いまにして思えば、この看守時代の体験が、僕の「笑い」の拠り所になっているのだが、その話はまた別の機会にしようと思う。
昭和の終わり際だった。犯罪者の見張りをしながら描いていたギャグマンガでデビューが決まり、上京した。額縁に入った新しい年号「平成」を見たのは、東京へ引っ越してほどなくのことだった。
世はバブルの絶頂期で、同時に崩壊寸前だった。若い人たちからすると「またその話かよ」となるかもしれないが、僕ら世代にとってバブル時代の狂騒とその後の混迷は、まだ未熟な価値観に決定的な影響を与える出来事だった。
僕のデビュー誌は1989年創刊の『パンチザウルス』というマガジンハウスの週刊誌で、あの伝説の『平凡パンチ』の後継誌として華々しく創刊されたものの、たった四カ月で休刊した。
創刊メンバーとして連載していた僕はいきなりの失職に落胆したけれど、同時にどこか痛快だった。先行きの不安などまるでなかった。それよりも、ようやく拘置所の塀から出られたのだ。存分に娑婆の空気を吸いたかった。
上京の際、マガジンハウスの編集者が借りてくれた井の頭沿線のワンルームに住まい、西友のレジ打ちをしながらぶらぶら暮らしているうちに、宝島や小学館からぼちぼち仕事が入るようになった。景気はまだ右肩上がりで、僕の奇をてらっただけのギャグマンガもおこぼれにあずかれた。
当時は不条理ギャグが一大ブームを巻き起こしていた頃で、その代表格が吉田戦車さんだった。スピリッツの巻末で『コージ苑』(相原コージ著)の跡を継ぎはじまった『伝染るんです』はまさに衝撃だった。
その衝撃を説明するには、僕のギャグ漫画遍歴を述べなくてはならない。いや、「述べなくてはならない」ほど大事な話では全然ないのだけれど、そうしないと自分の中の整理がつかないので、どうか述べさせて下さい。
バカボン原体験
人の創作物で腹がよじれるほど笑った最初の記憶は、赤塚不二夫の『天才バカボン』だった。まだ小学校に上がる前だった。
親戚の営む薄暗い工場の隅で、従兄弟が見せてくれたバカボンはカバーも取れたボロボロの単行本だった。内容はまるで覚えてない。だけどそれが「面白い」ことは直感として分かった。
紙に描かれたキャラクターが、まるで生きているように跳ね回る。たぶん不謹慎で、あきらかに暴力的で、現実では許されないことを平気でやってのける──いままでの絵本とはまるで違う、大人が見せたくない「ヤバい」もの──ページをめくるたび、脇をくすぐられたように笑う僕を見て、従兄弟もまた笑い転げていた。
説明するまでもなく、赤塚不二夫こそがギャグマンガの開祖である。
それまでの文法やルールをすべてブチ壊し、漫画に滑稽やユーモアではない「ギャグ」を持ち込んだ。それが当時いかに革命的なことだったか、リアルタイムで体験していない僕は後知恵でしか知らない。
赤塚を語る際、まず取り沙汰されるのは最盛期の前衛性だ。よく知られた見開きに顔だけが描かれた実物大バカボンや、『レッツラゴン』のメタなアドリブ展開には、いま見ても冴えた狂気を感じる。しかし、あのとき幼い僕を笑わせたのは、赤塚不二夫が生涯手放さなかった幼児性にあったように思う。
社会の常識や権力を完膚無きまでに打ちのめす赤塚のアナーキーなギャグは、当時反体制の象徴のように受け止められたそうだ。でも、いま見ると、むしろまだ倫理観を持たない子供の、ひたすら無邪気な振る舞いのようにも感じられる。だからこそ当時の僕の、残酷な本性を刺激したのではないだろうか。
ラジカルという言葉には「急進的」という意味とは真逆の「根源的」という意味もある。60年代から70年代にかけ、全共闘の若者を熱狂させ、また一方で子供たちをも爆笑させた赤塚ギャグは、真のラジカルだった。
後年僕が再認識した赤塚不二夫は、すでにアルコールに漬かった優しげなおじいさんだった。生涯ギャグを貫いた彼は、マンガだけでは飽きたらず、その矛先を自分自身に向けて破天荒な人生を送った。
そんな磁場に引き寄せられた多くの才能が、後の大衆文化を牽引した。お葬式で白紙の弔辞を読んだタモリは「私もあなたの作品のひとつです」と言葉を詰まらせた。
もちろん破滅的な生き様はその人の弱さも顕している。けれどもそれも含めて赤塚不二夫は「これでいいのだ」と肯定してみせた。無敵のフレーズだ。これ以上のギャグはない。僕の笑いの原風景に赤塚マンガがあったことを幸せに思う。
パイレーツ欲しさ
はじめて自分で買ったコミックスは、江口寿史先生の『すすめ!!パイレーツ』だ。
パイレーツを最初に読んだのは歯医者の待合室にあった少年ジャンプで、キャッチャーの犬井とピッチャーの猿山が1ページ丸ごと使ってアホなブロックサインを交わすシーンだった。
理由も分からず笑った赤塚マンガとは違い、小学四年生だった僕はしっかりとした自意識を持ち、必死で笑いを噛み殺した。歯医者の待合室でなければ、そのまま床を転げ回っていたと思う。
こんな面白いものが世の中にあったのか!──子供の語彙ではそれが精一杯だった。
それ以前に知っていたマンガは『ドラえもん』くらいで、マンガよりもアニメや特撮モノに夢中だった。ぼんやりとしていたマンガというジャンルが、急に自分の中でクローズアップされ、世の中には多くの週刊漫画誌があり、そこに連載された作品はコミックスという形で別売りされることを知った。そしてどうやら『すすめ!!パイレーツ』は既に一巻が存在するらしい──。
猛烈に欲しかった。欲しくてドキドキした。
性欲以前に子供が抱く、まだ名前のついていない欲望。おそらく誰にも身に覚えのあることだと思う。僕の場合は、それを明確に感じたのは「パイレーツ欲しさ」だった。
実際1巻を手に入れたときの悦びと、なぜか同時に感じた罪悪感はいまも忘れない。
江口先生はマンガ史的に言うと、ギャグマンガ中興の祖にあたる山上たつひこの系譜に連なる。
山上たつひこは劇画タッチでギャグを描くというハイブリッドな作風で、赤塚以降のギャグマンガに新たな地平をもたらした。『がきデカ』はその代表作だ。
元々は硬派なSF作品でも名作を残し、既にマニアの評価も高かった山上たつひこの圧倒的画力は、どんなブッとんだギャグにも異様な迫力と説得力を持たせる。そのあまりの生々しさが当時の僕には怖かった。同じくチャンピオンで連載していた『まことちゃん』も『マカロニほうれん荘』も、僕にとっては濃密すぎた。
このあたりは出会いのタイミングだと思う。もし僕が中学生でロック好きの兄貴なんかがいたら、間違いなくマカロニの方にハマっていたと思う。
マカロニがロックだとしたら、パイレーツはニューウェーブだった。パイレーツは三年間の連載で、その作画スタイルをかなり変えている。僕が歯医者の待合室で読んだ初期のものは、まだちばてつや風のタッチが残る純朴なものだったが、最終巻ではかなりソリッドな線になっている。各話の扉絵も後期のものは完全にニューウェーブだ。
時は80年代前夜。ちょうどYMOが世に出た頃だった。
江口先生は連載中に、見事その作風を80年代仕様へとシフトしていった。田舎の小学生だった僕も、散りばめられたギャグの元ネタを通じて新しい時代の空気を感じていた。作者からの秘密めいたサインを見つけるたびにワクワクした。情報源はマンガがすべてだった。
江口先生のニューウェーブな作風は『ストップ‼︎ひばりくん!』で完成を見る。その後の『寿五郎ショウ』や『江口寿のなんとかなるでショ!』は洗練を極めた作画で、またその画力があってこそ真価を発揮するギャグを披露している。クオリティの高さがそのままギャグになる。江口寿史でなければ出来ない芸当である。
おそらく求めるクオリティが高すぎる先生は、以後マンガの方は寡作になったけれど、イラストレーターとしての活躍は近年ますます盛んである。ツイッターに流れてくる先生の絵は現役バリバリで、いまでも胸の奥底をぎゅっとさせる。
表現力とアイデアの射程
江口先生のことを書いていてふと思い出したのだけれど、表現力のレベルとアイデアの射程について、いつも苦悶している。
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