「たまには他人事みたいに」【戸田真琴 2021年8月号連載】『肯定のフィロソフィー』

 母親から急に電話がきた。ついにAV女優をやっていることがバレたかと思い身構えながら出ると、声はすっとんきょうに明るい。安心しながら話を聞くと、今日会う予定だった友達が体調を崩して来れなくなり、ミュージカル『王家の紋章』のチケットが一枚余ってしまったから今から付き合ってくれないか、という話だった。物心ついた頃から母が愛読していた王家の紋章(細川智栄子あんど芙〜みん作)が今やミュージカルになっていて、そのチケットを母が持っているなんて感慨深い。小さい頃、まったくわからないのに延々とメンフィス王がかっこいいという話をされたっけな……と思い出しながら、今から急に有楽町まで行くのは少し面倒くさくはあったけれど、母親のめずらしく明るくかわいこぶって頼み事をしてくる感じに断りきれず、急いで準備をすることにした。

 帝国劇場に着くと、母は私の履いている真っ黄色のスカートを指差し「あんたなんでそんなに黄色いの!?」という。そして少し前を通り過ぎていったベージュのスカートを履いた女性を一瞬私だと思ったという。お母さんって私がベージュのスカートを死んでも履かないことさえ知らなかったんだ、とすこしびっくりする。チケットは1万円以上して、私が実家にいた頃の、専業主婦で父親にわずかなお小遣いしかもらえていなかった頃の母だったらきっと買えていないだろうな、と思う。自由に使えるお金の少なさに耐えかね度々パートに応募してはいざ決まってもやれ荷物が重いだの皿洗いばかりやりたくないだの言ってすぐにやめてしまっていた母も、いつの間にかホテルの清掃のバイトをしっぽりと続けて自由に使えるお金を手に入れていたのだった。子供の頃、新聞に載っている広告を眺めながら母が何度も「劇団四季のミュージカル見にいってみたいなあ」「高くて行けないなあ」「まこちゃんお金持ちの先生になって連れていってね」と言っていた姿をまざまざと思い出す。劇団四季じゃないけれど、ずっと好きな作品のミュージカルに来られるようになったんだな、と思うと感慨深い。いくつか売店でミュージカル関連のグッズをお土産に買ってあげる。前回母と話したのは私が熱中症で倒れて自力で救急車を呼んだ日で、救急隊員さんがどうしても緊急連絡先の確認として法的につながりのあるご家族に電話をかけてほしいというのでしぶしぶかけた電話だった。担架の上から2コールくらいで出た母は、「いろいろあって今救急車で運ばれて……」と私が説明するや否や「あんた、ワクチン射ったんじゃないでしょうね!! 死ぬよ!!!」と言い放つ声が救急処置室内に響いた。救急隊員さんが苦笑いをして、なんかごめんなさい、というジェスチャーをする。あと鎮痛剤も飲んじゃだめだし防腐剤も食べると死ぬわよ、とブックオフで買ったインチキ医療本出身の謎情報を山ほど教えてくれる。やっと病院にいる旨と入院するけど着替えとかは友達に届けてもらうから大丈夫だという旨を伝え終わると電話を切った。わたしは退院して調子が戻ってから、ワクチンの予約がやっと取れた。

 ミュージカルは豪華絢爛に幕が上がり、すべての主要な情報を高品質なオーケストラ生演奏とプロの作った耳覚えのいいメロディーにのせて歌ってくれるので見ているのが大変楽だ。TikTokしか見られなくなった若者もミュージカルなら楽しく見られるかもしれない、と思うほどすべてのメロディーがキャッチーでわかりやすい。隣で母はオペラグラスを覗き込み、イケメンなのかどうかよくわかんない! と耳打ちしてくる。私は相変わらず、少女漫画でよくあるなぜか突然王様や王子様たちが主人公にメロメロに惚れていく描写に頭をひねりながら、いつ何によって愛が芽生えたんだ……? と本気で考える。少女漫画の大部分の恋愛物語は男性向け作品でいうとライトノベルや異世界転生ものに近いと思う。なぜか主人公が不思議な魅力を持っていて、なぜか地位が高かったり容姿がすぐれている異性が虜になり、なぜか主人公を奪い合って周りが戦う。しかし今作はさすがにお金のかかりかたもキャスト陣の能力値も一流で、恋愛のしくみが理解できないままでも楽しめてしまった。盛大なカーテンコールで幕を閉じ、帝国劇場を出る。銀座の街を少し散歩してから母と別れる。数週間前はワクチンを接種しないことに向かっていた情熱が今はグルテンフリーな食事をすることに向かっているらしく、小麦をやめなさい! と去り際に言われた。年の始めにライオンキングも見にいったらしい。お金、そういうふうに自分の好きなことに好きに使うんだよ、と返す。有楽町線は静かにそこそこ混み合っていた。

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