「TENET」感想-何処から来て、何処へ行くのか【戸田真琴 2020年11月号連載】『肯定のフィロソフィー』

グランドシネマサンシャインの大袈裟なビルから出て雑多な街に降り立った時、私はようやく「TENET」に出会ったのだ、と心から嬉しくなった。そして、映画というメディアのことを、一層信じようと思った。どちらかというといい思い出のあまりなかった、全然綺麗じゃない池袋の街がやたらと深みのある色合いで輝いている。これがなかったら一生見ることができなかったかもしれない未来にいる。すれ違う人も車も、誰もが知らないことをわたしだけが知ってしまったような、そういう類の無敵感。見える現実のレイヤーがぐんと増えた、とでも言えばいいのだろうか。これは「起こらなかった悲劇」の物語だ。それも、ただ単に悲劇が起こらなかったのではなく、誰かがそれを防いだことを、誰も知らないという話なのかもしれなかった。

 主人公たちは、未来から過去へ、瞬間移動もなくただその歩く速さ、人間の普段使う移動手段の速さで逆行したり順行に戻ったりしながら、世界を救うための螺旋を描いている。進む向きが変わろうと、彼ら自身の視点から見れば常に前へ進んでいる。3回目の鑑賞を済ませてようやく主要な登場人物全員の歩いた時間の軌跡が頭の中で整理できたわたしは、それらがただ途切れずにつながっていること、ぐるりと大きな円環を描いていること、その途中で個々の目的のためにまた小さな螺旋をつくりながら進んでいること、それ自体の美しさに感動していた。時間は、止まることなく動き続けている。伸び縮みはするけれど、私たちの身体のある3次元では、感じる事はできても、見る事はかなわないだろう。彼らは歩き続けている。出会った時間は同じでも、どちらからきて、そしてこれからどこへ行くのか、それによって知っている情報に差異が出る。
 山場の一つである、逆行と順行が入り混じるカーチェイスのシーンでは、作品のヴィランであるセイターが、順行の自分と逆行の自分とで情報交換をしていると思われる瞬間もある。”情報による挟み撃ち”が可能な世界なのだ。
 情報を駆使して富を築き、戦いの中でも「知ること」を一つの大きな武器として使う敵軍に対し、主人公サイドは最後まで「無知は武器」というスタンスで戦うことになる。そのため、私たち観客は初見でこの映画のことを隅々まで理解する事はかなわない。わざとそうさせられているんじゃないか、というくらい、かなわないのだ。

 この映画の主人公(日本版のパンフレット等では「名も無き男」と訳されているけれど、実際は「PROTAGONIST」。そのまま「主人公」の意味)は、とことん観客の共感をそそらない人物である。特性や性格が一般人とかけ離れている、というよりは、そもそも共感するほどの個性がない。解るのは、元CIAで身体能力が高く、なるべく人殺しを避けようとする姿勢が見て取れるので、まずまず優しい男、というくらいのことだろうか。周りの登場人物にキャラクター的要素が強いぶん、不思議なことに映画を見ていると主人公の形をした空洞の周りに、数々の個性的なシーンが浮かべられているような感覚を持つ。こんなにお金のかかっている超大作映画で、主人公に目立った思想も個性もないなどということ、あり得るのだろうか? と初見の時にはその人物造形にも困惑したけれど、私たちは彼のことを知り得なくて当然なのかもしれなかった。これは主人公が「主人公」になる前の物語で、私たちが彼を主人公なのだと実感するには、まずはこの映画を最低1周は見終える必要があったから。「TENET」をなぜ人々が繰り返し繰り返し見に行くのかって、それはこの映画が、終わって初めて始まる映画だからだ。
 見終えた瞬間からが、「TENET」の始まりなのだった。

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