自ら築いた草の根のネットワークを頼りに全国のライヴハウスやカフェ、飲み屋などをツアーして回り、人によっては年間100本を超えるライヴを行なう“ツアー・ミュージシャン”たち。笑いと涙、心の痛み、そしてささやかな希望が息づく彼らの歌には、たまらなく人懐っこい魅力がある。
そんな彼らの活動に付きものなのが旅と酒、そしてブルーズ。ライヴと酒を通じて音楽の歓びを伝える、愛すべきツアー・ミュージシャンたちを紹介する不定期連載「旅と酒とブルーズと」。2回に分けて紹介したリクオに続いてご登場願うのは、関西ブルーズ/ソウルのレジェンド有山じゅんじ! 今日明日の2回連続でお届けします。
取材・文/染野芳輝
目次
♯2 有山じゅんじ(PART1)
70年代半ばにグルーヴィーなソウル・サウンドで一世を風靡した上田正樹とサウス・トゥ・サウスのギタリスト、そしてバンド解散後はソロとしてマイペースな活動を展開してきた関西ブルーズ/ソウルのレジェンド、有山じゅんじ。個性的なフィンガー・ピッキングで魅了するギター、ユーモアとペーソスあふれる歌、そして驚くほどピュアなラヴソングの数々……。様々なアーティストとコラボレートしながら全国に人の温もりあふれる歌を届けて回る稀代のブルーズマン、有山じゅんじに、そのキャリア、音楽への思いを聞く。(大阪・天満橋「MOTON PLACE」にて)
15歳で五つの赤い風船に加入。「まだFもちゃんと鳴らせない子供がいてるわけで、もうドキドキや」
ーー有山さんとは初めてお話しさせていただくので、まずは音楽と出会った頃のことから聞かせてください。ギターを始めたのは12歳頃だそうですが。
そうやね。小学生から中学生になる頃。たぶん紅白歌合戦だと思うんやけど、マイク真木が「バラが咲いた」を歌いながらポロンポロンとギター弾いててな、女の人がキャ~言うてるわけや。それがええなぁ思って(笑)。
ーーすぐに弾けるようになりました?
みんなそうやと思うけど、最初のハードルがFやんか。Fのコードをちゃんと鳴らせるかどうかで、ギターを続けるかやめてしまうかが決まりがち。僕はなかなか鳴らせなかったけど、やめなかった。ギター触ってるのが好きやったんやね。
ーー好きこそものの上手なれ。もともと音楽が好きだったんでしょうね。
小学校では鼓笛隊に入ってたんやけど、笛が好きでね。縦笛で「アマリリス」を吹きながら学校の行き帰りをしてたんで、“アマリリスの有山”なんて言われてました(笑)。
ーー子供の頃から音楽と仲良しだったんですね。
そうやね。ずっと変わってへん。
ーーで、有名な話ですが、15歳で関西フォークの名グループ、五つの赤い風船に加入しました。
中2の終わり頃だったと思うんやけど、友達に時計屋の息子がおって、日曜日に彼の家でギター弾いてたら(五つの赤い風船のリーダーの)西岡たかしさんが時計を見に来はってね。懐中時計を集めてたんやね。で、僕らもギターやってるから一度遊びにおいで、言うてな。風船はまだアマチュアで、メンバーが一人欠けたばかりだったんで、ちょうど良かったんやろうね。そのまま入ることになったわけや。まだURCレコードが出来かけの頃で、いつも一緒にライヴをやってたのがジャックス、フォーク・クルセダーズ、岡林信康。そんな中に、まだFもちゃんと鳴らせない子供がいてるわけで、もうドキドキや。あのままやってたら、どうなったんやろうなぁ。まぁ僕は高校受験があるんで、1年ぐらいで辞めましたけど。
ーーまだURCレコードは発足してなかったんですね。
そう。僕が辞めた後、すぐにレコード会社として立ち上がって、(高田)渡さんと五つの赤い風船のカップリングLPが出たんやね。
ーーそれにしても中学生で凄い経験をしたもんですね。
なんかね、不思議な巡り合わせというか。引き寄せられて行くんかもしれんね。高校生になって、キー坊(上田正樹)や亡くなった石田(長生。2015年死去)くんたちと知り合ったのもそう。心斎橋のヤマハにダックス・バンド・クラブっていうサークルがあってな。好きに演奏できて、2ヶ月に1回ぐらいライヴができるわけ。そこでキー坊はMZAっていうブラッド・スウェット&ティアーズとかのコピー・バンドをやってて、石田くんがギター。僕は高2ぐらいから男2人でペンタングルやフェアポート・コンヴェンションとかのブリティッシュ・フォークを演ってました。
ーーへえ~、それは知らなかった。ということはギターの腕前は相当上達してたわけですね。
Fはちゃんと鳴るようになってました(笑)。みんな上手かったよ。ベーやん(堀内孝雄。のちにアリス)はデヴィッド・クロスビーとか演ってたし、スターキング・デリシャスを結成する前の大上(留利子)さんもおったね。そんなふうに音楽の輪が広がっていった。キー坊とサウス(上田正樹とサウス・トゥ・サウス)を結成するのも、あそこで知り合ったのがきっかけやからね。
サウス・トゥ・サウスは、みんな素晴らしいミュージシャンでな、あんな才能豊かなヤツラが集まったのは奇跡みたいなもん
ーー今思えば凄い才能が集まっていたんですね。石田長生さんが“心斎橋のアルヴィン・リー(早弾きで知られるテン・イヤーズ・アフターのギタリスト&ヴォーカリスト)”と呼ばれていたのもその頃のことですかね。
石田くんはギター持ったらこう(早弾きする仕草)やから。ジャズも勉強してたし。「ウッドストック」は何年やったっけ?
ーー1969年です。映画の公開は1970年で、日本では70年の7月に公開されたみたいです。ちょうどその頃ですね。
あの映画のテン・イヤーズ・アフターを観て、石田くんは刺激を受けたんちゃうかな。みんなウッドストックに憧れて、日本でも始まったよね。中津川(全日本フォーク・ジャンボリー)や夕焼け祭り(70年代にロック・バンド“めんたんぴん”を中心に石川県で開催されたロック・フェス)、春一番(関西フォーク系アーティストを中心に始まった大阪の名物コンサート)……。今みたいにきっちりオーガナイズされてなくて混沌としてたけど、おもろかったよ。東京オリンピックがあり新幹線が開業し、ベトナム戦争がありウッドストックや。物凄いスピードで時代が変わる時期で、エネルギーが渦巻いてた。そんなエネルギーをみんな表現したかったんやろうね。
ーーそうか、有山さんはフォーク・ジャンボリーに出てらっしゃるんですね。
71年の第3回やね。まだアマチュアで、相方と2人で(“ぼく”というグループで)出ました。サブ・ステージでお客さんは15人ぐらいやったかな。メイン・ステージには人気に火がついてた加川良さんとか安田南さん、浅川マキさんとか錚々たる人たちが出とって、お客さんも2万人とか3万人。凄かったよ。でも何年か前に中津川に行った時、当時の会場だった場所に連れていってもらったんやけど、とても2万人、3万人が入ったとは思えんぐらい狭いところで、驚いたわ。当時はそれぐらいエネルギーが充満してたちゅうことやろか。
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