世田谷ピンポンズ:小さな思い出の断片がちんまり光る。僕たちはいつも思い出してばかりいる【映画「ちょっと思い出しただけ】に寄せて

世田谷ピンポンズ寄稿「小さな思い出の断片がちんまり光る。僕たちはいつも思い出してばかりいる」映画『ちょっと思い出しただけ』に寄せて

文/世田谷ピンポンズ

なんだかまんじりとしてしまって眠れない。明日も朝から仕事があるのに。焦れば焦るほど時間は加速し、夜が深まれば深まるほど朝が近づいてくる。普段当たり前に受け入れているそんな事実に抗うように思いきって窓を開けた。またたく間に入り込んできた鋭い冷気に無意味に伸びる背筋。どこかで飲んできたのだろうか。酔っ払いの若者の大声が道路を汚す。静寂を切り裂く音にしては鈍すぎるそれにうんざりして、すぐに窓を閉めた。こんな時間から何処かへ向かう車の音。そこに住んでいる人がどんなに嫌な奴だったとしても夜景はいつもきれいだ。空が段々白み始めている。

 

 

青年がひとり、部屋でジム・ジャームッシュの「ナイトオンザプラネット」を観ている。色々な街の夜を描いたこの映画はいついかなる場所も深夜にしてしまう。トム・ウェイツのがなるような歌声とボンボン低く鳴るベース音が世界中の夜をつなげてしまう。女優に誘われるという道を足蹴にし、煙草をくわえながら整備工になりたいと話すタクシードライバー(ウィノナ・ライダー)が最高にキュートな映画。

青年はお酒を飲んだまま寝落ちしてしまい、あっという間に朝が来る。カレンダーは七月二十六日をさしている。映画がこれから何度も遡ることになるいつかの七月二十六日。

 

佐伯照生(池松壮亮)は慣れた手つきで窓際の植物に水をやり、飼っている猫にご飯をあげる。道すがら、お地蔵さんに頭を下げ、公園のベンチに座る男性(永瀬正敏)に挨拶し、いつものように職場へと向かう。彼は劇場の照明係として働いている。

野原葉(伊藤沙莉)はタクシードライバーをしている。チェックのマスクに飛沫防止のビニールシート。コロナ禍の東京で彼女は今日もタクシーを走らせる。静まり返った夜の街には眠りを忘れた人たち。雨で濡れた街がきらきらと輝いている。タクシーには夜の街が良く似合う。タクシーはまるで映画みたいに乗せた人たちの人生をあぶりだす。

 

「ちょっと思い出しただけ」は二人の別れを描いた映画だ。しかし映画は二人の出会いを最初に描かない。僕たちはなぜ二人がいまこうして別々に暮らしているのかを段々と知ることになる。別れを経た後から始まるこの物語は、二人が幸せだった時間へと進んでいくから、僕たちはもう戻ることのない過去に切なくなると同時に、確かにそこにあった幸せな時間に安堵することにもなる。

ある一場面を境にして、道を間違えたタクシーが最初の地点に戻っていくみたいに、二人の物語は過去に向って動き始める。メーターは絶えず回っている。

「恋愛映画みたい」

葉がつぶやく。

この映画では、雨がたびたび登場人物たちを濡らす。照生にプレゼントを渡せずにずぶ濡れになる葉。公園で妻を待ち続ける男性。照生の気持ちを確かめるために閉館後の水族館に濡れたままの姿で現れる葉。雨は物語を盛り上げるけれど、雨が人を濡らしているのではない。降りしきる雨の下で人は勝手に濡れている。だから案外そんな都合のいい時に限って降る雨こそが現実で、平凡な日々の連なりを恋愛映画にしたりする。

二人で「ナイトオンザプラネット」を観る。言わなくても伝わると信じている照生と「言わなくちゃ伝わらないよ」ときっぱり言う葉。幸せな時間の中で、照生がある言葉をぼそっとつぶやく。いま二人の前で未来は確かに輝いている。

しかし別れから始まるこの物語を観ている僕たちは、そんな輝いた未来が来ないかもしれないことをすでに知っている。「ナイトオンザプラネット」の劇中で、ウィノナ・ライダー扮するタクシードライバーは決して女優にはならないし、移民の男性ドライバーは、教えられたほうとは逆に曲がり、道を間違えたままニューヨークの街に消えていく。時間が経ち、やっぱり照生はひとりでも猫にちゃんとした量のご飯を上げられるようになる。

言葉は本当にそう思ったときにちゃんと口に出さないとその力を失ってしまうのだ。照生の軽く口走った言葉はすぐにアパートの虚空に浮かれて消えて、それは決して二人の未来になることはない。

 

高円寺の高架下、路上ミュージシャン(尾崎世界観)の歌声をバックに出会ったばかりの二人が踊る。誰に届くでもない歌を街に放り投げるミュージシャンと、それに合わせて勝手に踊る二人。シャッターの閉まった飲み屋街にミュージシャンの歌声が響く。ひとけのない深夜の高架下、そこは彼らのステージになる。恋の始まりはいつも独りよがりで盲目だ。そこに聴衆はいないけれど、聴衆がいないことなど彼らには関係がない。巻き戻せば恥ずかしいことばかりで早送りしたくなる、そんな頓珍漢な二人の生活を焦点のズレたスポットライトが照らし続ける。

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