「『アネット』でも遅すぎる。2022年のフィクションについて」【戸田真琴 2022年4月号連載】『肯定のフィロソフィー』

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『アネット』を観た。カラックスの言う「愛」というのはシンプルにエゴイズムのことなのだろうか? 愛を見たり触ったりしたことのない人には、愛という言葉のほんとうの意味を知るのはあまりに難しすぎるけれど、実際のところこの世に生きる/生きてきたほとんどの人間は愛を知らないだろう。辞書でひいたり、「愛」という言葉の出てくるフィクションを見たり、知っているつもりで言葉として敢えて使ってみたりする間に、勝手に「愛」という言葉の意味を自分の中で補完している。この世のほとんどの人間は、「愛」と呼べそうな気がする、それっぽい何かのことを、疑いもせず、あるいは疑念を誤魔化しながら、愛と呼んでいる。けっこうな確率でそれは間違っているのだけれど、それでも信じることが大切なんだとかなんとか言い聞かせ、愛そのものではなく「愛」という言葉を当てはめた何かのもと、恋人同士でいる約束をしたり、キスをしたり子供をつくったりする。それが本当に愛なのかなんて、なんの確認もとれていないのに!
 という、ただの現実のことを、普段はなるべく言語化しないようにしている。これを言語化することは、この世にあるほとんどの「(言葉としての)愛」をある種否定するかたちになるからである。しかし、カラックスの映画の中にも本物の愛はついぞ見つからないのであれば、一体どこを探したら良いんだろう? 見てきた作品のことを思い出しても、カラックスの描く「愛」は衝動的で暴力性があって、そして、女性が偶像として描かれていたと記憶している。不安定な衝動性のある「愛」さえも描かれることの少なかった時代だってあっただろう。アウトサイダーに寄った映画自体が貴重だった頃もあっただろう、それらが先進的だった時代もきっとあった。彼は魂のビジョンを映像に翻訳できる稀有な作家で、その芸術性はゆるぎない。『アネット』も終始ファンタスティックな舞台装置と美しく不穏で示唆的なカメラワークをはじめ、芸術性を高く保っていて、それだけでも価値のある作品だろう。
 だけれど今は2022年で、最新のものがいったいどういう社会の中でつくられたものなのかを、私たちは同時代に生きる人間として肌感覚で知ることができてしまう。そう、今は2022年、私たちはどんな世界を生きているんだっけ。

 見るものを現実からフィクションへと手招く奇想天外なオープニングは実にすばらしく、音楽も人々の芝居も心を鮮やかに沸き立たせる。明度は暗めで彩度は高めの特徴的な色彩感覚、超常的な自然の背景を舞台装置のように撮影する自由さ、時間のつながりを無視してくるくると変わる主演二人のスタイリングやヘアセット。
 全編オペラにすることによって、ストーリーで描かれている、現実世界でも既視感のある野蛮な悲劇が戯画化して見える。鑑賞者は、あざけるつもりもなく真剣に画面に観入れば観入るほど、いつの間にか彼らを嘲笑しながら見るまさに「観客」としての感覚に引き摺り込まれそうになるため、ずっと居心地が悪いまま2時間20分を過ごすことになる。
 スタンダップコメディアン・ヘンリーの観客を笑いで殺すステージも、オペラのスター・アンの劇中で何度も死ぬステージも、すっきりとした気持ちで見られるようなところはなく、その“フィクションの中にあるフィクション”、すなわちステージ上にさえ自分自身の醜悪なところや痛々しいところを投影することになり、嘲笑させられていたはずの自分が次の瞬間に嘲笑われる側の感覚を味わったりもする。座り慣れているはずの映画館の椅子で、終始居心地の悪さを感じていた。
 
 ヘンリーとアンのロマンティックで艶やかな恋と結婚が描かれたのち、生まれた娘との暮らしのなかでこれまで釣り合っていたバランスが崩れてゆく。淡々と成功をつづけるアンと、観客たちとの間にズレが生じはじめコメディアンとしての地位が下がっていくヘンリー。娘の世話をしている間にも心に澱がたまり、破壊衝動や深淵への誘い、安定や安寧を生ぬるい泥のように嫌悪すること、そして悲喜劇の主演として生きるような劇的な感覚への欲求。とくにヘンリーの役はダークな喜劇としての、アンの役は悲劇としてのイメージを繰り返し繰り返しステージの中で演じるものである。イメージをする、というのは厄介なもので、理性とはまた別のところで想像力は羽ばたいてしまう。繰り返し「殺す」ことをイメージし続けたヘンリーと、「死ぬ」ことをイメージし続けたアンは、物語に誘われ、現実を過剰な脚本へとシフトさせてしまい、やがて現実をフィクションの供物にしてしまう。あの波の中のダンスシーンはヘンリーの中で芽吹き、まさに想像力そのもののように膨れ上がり荒波になった悲喜劇のイメージであり、飲み込まれたあとの月明かりは殊更しずかに第二章のはじまりを告げる、どこかくるった神聖ささえ感じられるシークエンスになっている。

 そう、フィクションは、人の頭にイメージを刷り込む。だからこそ、今わたしたちは2022年を生きながら、これから、作り手としてどういうものを世に出していくべきなのか、作者をはじめクリエイティヴに関わるすべてのひとたちが「ほんとうにこれをつくるべきなのか?」を殊更考えながら進まないといけない。
 この映画の芸術性について、そして無批判に男性性を描いてきた作家が、男性の暴力性に対して批判的な目線を込めて描いたというだけでかなりの進歩だと捉える人には同意するし、これを見て男性たちが居心地の悪さを感じることにも大いに意味があるとは思う。『パワー・オブ・ザ・ドッグ』が賞賛されることの根っこもそこにあって、たしかに亀のあゆみながらも時代は動いていると感じる。それでも本当は、有害な男性性を描くこと自体にもっとみんなが慣れて、当たり前になって、それが珍しくもなんともない世界に早くなってほしいので、私はどうしてももどかしさを感じてしまう。

 映画に対して、シンプルに見るのが苦しい、というのは批判でもなんでもなく、プラスでもマイナスでもないただの感想なのだけれど、やはり私は2022年を生きるひとりの女性で、世界にもっともっと早くましになってほしいと切に願うひとりの表現者だから、思う。

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