天久聖一がおくる笑いについてのノンフィクション【笑いもの 天久聖一の私説笑い論】第7回

笑いもの 第七回

 

▲「バカドリル」天久聖一 タナカカツキ

 

後に一緒に『バカドリル』を描くことになるタナカカツキさんとの出会いは、新宿界隈のマンガ家の飲み会だった。

当時(1990年頃)『ドトウの笹口組』などで有名な若林健次さんを中心に、吉田戦車さんや朝倉世界一さんや中川いさみさんや、多くのギャグマンガ家がその集まりに出入りしてた。

僕も末席ながらその集団に加わり、カツキさんは若林さんに誘われて顔を出したはずだ。新宿マンガ村のメンバーは東北や首都圏出身者が多く、その飲み会で「西の人間」は僕とカツキさんだけだった。なので自然と会話がはじまり最後は上京して一番というくらい爆笑して意気投合した。

 

カツキさんと言えば、いまや「コップのフチ子」の作者として、また現在も続くサウナブームの火付け役として有名だ。定番のサウナ用語「ととのう」はカツキさんの発案で、その言葉が最初に使われた『サ道』を頂いたときの強烈な面白さはいまも鮮明に思い出せる。2011年出版された最初の『サ道』はエッセイマンガではなく、マンガと文章がはっきり別れた珍しい構成で、サウナを瞑想法のように捉え「ととのう」はほとんどアシッド体験のように描かれていて度肝を抜かれた。

 

フチ子やサウナだけではない、90年代前半からいち早くMacを導入して、いきなり流通レベルのCGアニメをつくったり、まだポッドキャストなんてない時代にネットラジオ「デジオ」をはじめたり、他にも水草水槽やら岡本太郎復権少女マンガ「オッス!トン子ちゃん」など、数え上げればきりがないほどイイ仕事を残している。

しかし、なにより凄いのはカツキさんの持続力だ。先に紹介した仕事はほとんどがいまも継続中で、実はこの原稿を書くために検索をかけたら、2004年にはじめたデジオは現在も続いていた。

酒を飲まない、浪費を好まない、日々のルーティーンを完璧にこなすカツキさんが現在どんな境地に達してるのか。ご本人とはもう何年も会ってないので久々にデジオを聴いてみると、昨年2021年は毎日VRゴーグルで卓球をやっていたらしい。腕前はAIの最高レベルをクリアし最近は世界相手にネット対戦の日々、毎日汗だくになるまでやったおかげで体重は6㎏減ったという。変態かもしれない……。

たとえ変態であったとしてもカツキさんほど独創的で、まだ無名の概念に形を与えるクリエイターは希有だ。その仕事があまりにジャンルレスゆえ作品ごとの飛び石的評価に留まっているのがもどかしい。政府はカツキさんにこそジャパニーズカルチャーを委ねるべきだと本気で思っている。

 

 

と、かなりの遠回りになってしまったけれど、初対面のカツキさんの印象は関西のおもろい兄ちゃんだった。あとでそのマンガを見てびっくりした。初期のカツキ作品はきわめて繊細な叙情派マンガで、まずそのギャップに驚き、美大出身のアカデミックな知識とたしかなデッサン力に舌を巻いた。

カツキさんの方もあとで読んだ僕のマンガがかなりツボだったらしく、距離は急速に縮んだ。その後、カツキさんの幼なじみ『マインド・ゲーム』のロビン西さんとも繋がり、ようやく東京で仲間ができたように感じた。

 

『GOMES』から連載依頼が来たのはその頃で、僕は真っ先に頭に浮かんだカツキさんに連絡を取った。

『GOMES』はまだカネに余裕があった頃のパルコが、若者向けに出していたフリーペーパーで表紙をヒロ杉山さんがつとめ、どこかビックリハウスの匂いがした。

僕に任されたのは新聞のような大きな紙面の一画で、四コマには大き過ぎエッセイマンガには小さ過ぎた。僕はなんとなくマンガというより教科書に乗っている図版のパロディのような、ネタの標本箱のようなものをイメージしてカツキさんに相談した。

それですぐに戻って来たのが「漢字の起こり」というネタで、たとえば人間の姿がだんだん抽象化され「人」の漢字になる類のパロディだった。概ねくだらないモノや事象が本来は存在しない、でもそれっぽい偽漢字になってゆくそのネタはバカドリル全体の方向性を決定づけ、最初に見たときは爆笑と同時に鳥肌が立った。

 

僕はもともと前職を辞めるためマンガを描き始めたような付け焼き刃で、ヘタウマ風に見せるのが精一杯の画力しかなかったけれど、カツキさんは美大出の確かな画力で僕のどんなシュールなネタもたちどころに「面白く」してくれた。

最初はただそれが楽しくて、なんとかカツキさんにその気になってもらえるネタを考えていた感じだ。

当初は「相撲の決まり手」や「体重計の乗り方」といったパロディだったが、ネタはどんどんシュールになっていった。というよりもシュールに浮揚するための滑走路としてパロディを利用していた気がする。

 

ワケが分からない方が面白いと、いまでも思っている。

カツキさん経由で知った現代アートの文脈や、無意識やオカルトやサイケデリックやそのほか諸々、若いヤツなら一度はかぶれる毒がまだ抜けてないだけかもしれない。

しかし「面白いもの」が面白いはずがない。

既に面白いものに対する笑いはただの同意か追従で、本当に笑うには受け取る側の解釈がいる。もっと言うとそれでも解釈できないものだけが面白くて、それは狙って出来るものではなく端的に言うと狂わなければつくれない。

いま、そう書いてみて、さすがに青臭いと思う。そういう極端な考えによっていにしえのギャグマンガ家は悲惨な末路に進んだのかもしれない。

だからと言って、作り手と受け手両方が「外さない」ことばかりをやっていると、中身はたちまち干からびてしまう。いや、それでいいのか。干からびた肉から染み出る滋味を尊ぶことが現在のサブカル作法かもしれない。それにワケが分からないものなら、こんなに世間に溢れている──また話が逸れてしまった。

 

初期衝動の勢いが詰まった『バカドリル』はヒットした。

もちろんカツキさんの画力と最初の一撃で拓けたスタイルだけど、我ながら革新的なギャグがつくれたという自負がある。

あの頃、吉田戦車さんが起こした不条理ブームはマンガ界全体に飛び火して、この時期多様なギャグマンガ家がデビューした。

中川いさみさんは戦車さん以上にシュールを地でいく不条理マンガを描いていた。代表作『クマのプー太郎』はトロみのあるポップな白昼夢という感じで知的さもあった。

スピリッツにはギャグマンガのいぶし銀『じみへん』の中崎タツヤ先生もいた。

朝倉世界一さんは本人も作品もとにかくオシャレで憧れしかない。初期の『アポロ』はオシャレな上に泣かせてくるんかい!と悔しい気持ちで読んだ。

和田ラヂヲさんはヤンジャンで少し遅れてデビューした。本音を言うと最初は「また似たものが」だったが、そんな目で見ていたであろうヒネた読者などお構いなく直に真価を示した。

にらめっこは無表情が一番強いことを熟知しているというか、ご本人の見た目が坊さんみたいだから余計そう思うのかもしれないが、いまも変わらず禅の達人のようなギャグを書き続けている。

実はコロナ直前に予定していたトークショーが流れてしまって以来、お会いできていない。会いたい。

四コマ・ショート系以外でも、いましろたかし先生や、古谷実先生、そして俺たちの巨匠、漫☆画太郎先生と名前を並べるだけで、この時期のギャグがいかに充実していたのかが分かる。

おっと『ゴールデンラッキー』の榎本俊二先生を忘れてはいけない。この時期に現れたギャグマンガの中でおそらく最も革新的な作品だったと思う。

榎本先生は四コマを起承転結ではなくトコロテンのような時間、あるいは長いフィルムの中の任意の四枚として捉えていたように思う。それを見事な編集で調理していた。編集のみと言ってもいい。こんなシンプルな正解があったのか! またも悔しさのあまり他言できなかった当時の感想をここに述べておきたい。

『バカドリル』もそんなポストギャグマンガの一角に!という思いはあったけれど、そもそもマンガとして認知されなかった。コマ割りも台詞もないネタの羅列をどうカテゴライズしていいかのか、世間も自分たちも分からなかった。ただここで僕らが生み出したギャグの見せ方はその後、広告で散々模倣されたし、芸人さんたちのテロップ芸にもかなり影響を与えているとは思う。その先駆者がバカリズムだったときは「紛らわしいだろ!」と一瞬思ったが。

 

カツキさんとは『バカドリル』のあと、『バカドリル・コミックス』と『ブッチュくん全(オール)百科』という奇書をものすることができた。どちらもそれを語るための文量を考えると、とても語る気になれないほどの思い入れがある。だから語らない。どちらも超傑作とだけ申し上げておきましょう。

 

次回は、実に三十年近く連載しているという実にお恥ずかしい『バカはサイレンで泣く』など、僕がほぼライフワークとして続けている投稿企画について語る予定です。では!

 

つづく

 

天久聖一

あまひさ・まさかず●1968年生まれ。香川県出身。1989年漫画家デビュー、以降、主に漫画以外のジャンルで活躍。今はもっぱらグッズ販売に夢中☆ 来夢来人

 

【笑いもの 天久聖一の私説笑い論】

0
Spread the love