おとどちゃん連載・19「それは、いつかのエーデルワイス」

創業92周年! 高知県桂浜にある小さな水族館から大きな声で、いきものたちの毎日を発信中!

広報担当・マスコットキャラクターのおとどちゃんが綴る好評連載第19回は、今月ハマスイから旅立っていった人気飼育員との、楽しくて美しくて、そして切ない思い出。
ラストには思い出フォトをたっぷりお届けします。

以前のお話はこちらから。

午前七時。朝月夜が浮かぶ二月の朝は白々しく、夜の淵から顔を出す魚たちも、心ここにあらずといった風にそれぞれの海を泳ぐ。春を待つ頼りない月が、淡い空に溶けてゆっくりと消えた。

毎年恒例の節分イベントが無事に終わり、三年ぶりに開催された高知龍馬マラソンも、大盛況のうちに幕を閉じた。意外とイベントが盛りだくさんな二月だったが、今年一番の出来事といえば、ひとりの飼育員の退職だろう。

四年前に桂浜水族館にやって来た彼は、「さめ」という愛称で、魚類担当として仲間入りした。すらりと背が高く、痩身で色白だが、ひどい癖っ毛で、湿気の多い日には、本人がうんざりするほどくるくると捻じれて、通常の二倍の量に膨れ上がる。生意気なことを言い、無邪気に笑って見せてくれたかと思えば、アンニュイな横顔で儚さを滲ませる。ころころと変わる機嫌と表情、忖度を知らない物言いが、幼い子どものようだと思った。

しばらくして、さめは、魚類担当から海獣担当へと変わった。魚が好きな彼にとって、この異動は不本意だったのだろう。「いつか魚類チームに戻りたい」と溢し、その頃はいつもささくれだっているように感じた。そんな彼が、仕事に対して少しずつ前向きになり、またひとつ変化の時を迎えた。アシカショーにデビューするための練習で、「ケイタ」と意思疎通がうまくできない悔しさから、ステージの端で涙を流していたことがあった。初めて大きな壁にぶつかり苦しむさめのそばには、先輩飼育員が静かに寄り添い、彼にアシカと心を通い合わせる魔法を教えていた。

そうして、すっかりささくれがとれ、後輩もできて、「新人」という肩書きを譲った頃、今度は彼の後輩がアシカショーにデビューすることとなった。しかし、どんなに練習を重ねても、ステージで人前に立ってパフォーマンスをするという不安と緊張、生きものと心を通い合わせることの難しさに、かつての自分と同じように心が折れかけている後輩に、彼は「大丈夫だよ」と声をかけた。そして、「お前ならできるよ。好きでしょ、人前に立つの。俺は違うよ。こうして人前に出たり、たくさんの人の前でなにかをすることをずっと避けて生きてきたんだ。ほら、ケイタの目を見てごらんよ」と、アシカを撫でながら静かに笑った。

迎えたデビュー当日、観覧席の一番後ろで、後輩を見守っていたさめは、あの時なにを見つめていたんだろう。アシカショーが終わり、前に出て、観客に向けて深々と頭を下げながらなにを思っていたんだろう。初めてステージに立った日、流した涙、先輩が自分のために立っていた場所に、今は自分が立っているということ、そして、後輩にかけた「大丈夫だよ」という言葉が、彼のこともちゃんと守りますようにと、心の中で切に願った。

 

それは、一月のある日のことだった。

いつもと変わらない面持ちで館長室に入ったさめが、館長に退職の意思を告げた。

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