第19回 モノマネ最強論
かねてより、モノマネが最強の笑いだという思いがどこかにある。いかに斬新でセンスのいいコントを見ても、見事な漫才も見ても、モノマネで笑うときの瞬発的な高揚感には届かない。
かといって、モノマネが笑いの中で特に優位かというとそうでもなく、どころか、モノマネはいくらウケようと、お笑いの中ではどこまでもニッチで、一段下に見られている感じがある。
しかし、裏を返せば、これはモノマネがより根源的な笑いだという証でもあるように思う。
モノマネは最もシンプルに笑いの本質に迫っているせいで、現在のお笑いの中で「意識的に」軽視されてきた。あるいは、一定の柵の中で管理されてきた。おそらくは、そうしないとお笑い全体がこれまで築き上げてきたルールやステイタスが脅かされるからだろう。
ただ、そういう風潮もここ最近変わってきた。いまは芸人側が率先してモノマネを取り入れている。モノマネはいま、静かに大きな変革期を迎えているような気がする。
僕ら世代でモノマネというと、やはりコロッケ抜きでは語れない。コロッケはモノマネの歴史にまさしく革命をもたらした人物で、個人的にはダ・ヴィンチ、ニュートン、松っちゃんと同等の存在だ。
僕が最初にコロッケを見たのは『お笑いスター誕生‼︎』で、中学生になったばかりの頃だった。そのときはバックに曲を流して、ドラァグクイーンのリップシンクのように、その歌手の仕草だけを誇張してまねていた。当時はコロッケ自身もユニセックスなキャラだったので、爆笑しながらもどこか妖しい水商売の雰囲気がつよく印象に残っていた。
後年、コロッケは「モノマネ四天王」のひとりとして、本格的なブレイクを果たす。そのときは誇張した形態模写だけではなく、レベルの高い歌マネも会得していて、それまではイロモノ扱いだったモノマネを自立したエンターテインメントに押し上げていた。その時期に生まれた「ロボット五木」は、モノマネとアニメーションダンスをマッシュアップさせるという天才的発想で、モノマネでありながら完全にオリジナルな「なにか」になっていた。これはもう無形文化財に認定していい芸だと思う。
コロッケは自身のYouTubeで、自分を含めたモノマネ史を簡潔に解説してくれている。それによると、モノマネは大きくコピー派とパロディ派に分かれていて、自分は後者だという。コピー派が精密な再現度を競うのに対して、パロディはそこに誇張や余分を加えるのだという。
コロッケ自身はご本人への配慮から敢えて言及しないが、パロディはオリジナルへの批評そのものだ。いくら「好きなればこそ」を強調したところで(実際そうであっても)、その視点が持つ批評性、からかいの精神は隠せない。取り澄ましたやつの足を引っ掛ける、僕にとっては一番痛快な笑いはそこにある。
結局、小学生が一番笑うのは先生のモノマネである。子供はモノマネによって、権威がその空虚さを暴かれることを本能的に察するのだと思う。だからモノマネの対象は大物ほどいい。ただ大物過ぎると本気で叱られるので注意しなければならない。
また一方で、コピー派ならではの面白さもある。深く考えるとコピー派の方がより人間の本能をあぶり出している気さえする。
人は基本的に「同じもの」に安心を感じ、「違うもの」に不安を感じる。これは生き物としての生存本能に由来する。同じものは仲間で、違うものは敵だからだ。
モノマネ、つまり「似てる」という現象は「同じなのに違う」という矛盾した現象であって、人はそこに生じる脳バグによって笑っているのかもしれない。笑いの表情はサル学によれば威嚇の一種とも言われている。だとすれば、仲間への親愛と敵への威嚇が、笑いという複雑な感情を引き起こすのは道理に適っている。
モノマネにはコロッケのようなエンタメ重視のジャンルとは別に、カルチャー的なジャンルもある。この路線の元祖がタモリと言われている。いまでもYouTubeを掘ると、有名なタモリによる寺山修司のモノマネが見られる。これはモノマネにプラスして本人の内面やクセをトレースするもので、いかにも本人がいいそうなことをアドリブで言い続ける芸である。
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