文/世田谷ピンポンズ 題字イラスト/オカヤイヅミ 挿絵/waca
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「ササキが写真撮ろうとしたらみんなそっぽをむこうぜ」
Yがそう言うと、Aもニヤニヤし「やろうやろう」と言いだした。僕はササキと仲が良かったので、あまりそういうことはしたくなかったが、AやYとも仲良くいたい気持ちがあり、ササキには悪いと思いながらも二人に従うことにした。大人しいIも無言でそれに付き従う。常日頃より、ササキの軽薄でどこか一方的に他人から軽んじられるような性質を、各々、おのれの情けなさを棚に上げつつ馬鹿にしていた節があった。いつも他の二人とともに悪ノリしながらいじっていた。一方でササキとも睦まじく笑いあい、だべり合う。僕は見紛うことなき八方美人であった。
はい、チーズ。
せーのでそっぽをむく。アドリブにしてはきれいにそろった。
「おいおい、こっちみてくれよう」ササキが笑っている。友達に背を向けるやましさと、その行為に内包された甘美な快楽。南禅寺の石垣が苔むしている。五つのリュックサックは秋の哲学の道を目指す。二十年も前のこと。
京都に住んでもうすぐ十年になる。毎年、この街の絡みつくような夏の暑さに辟易するものの、それはかつて通っていた地元の高校の所在地と同じ気候でもあって、懐かしくもある。あの頃、修学旅行で歩いた哲学の道はいまでは散歩がてら少し足を延ばした先にある。今年は心なしか蝉のリフレインを長く感じていた。何度も夏を繰り返すように晩夏の哲学の道を歩いた。
その道の終点を抜けると、なぜか既視感のある風景が顔を出した。左手に見える校舎から男子高校生が続々と飛び出してくる。なかには中学生も混じっているように見える。脳内にあるフレーズがリフレインする。
「法然! 法然! 法然! 法然!」
ここ東山高校は映画『色即ぜねれいしょん』の主人公・「イヌ」こと乾純の母校であり、彼のモデルである原作者・みうらじゅんの母校でもある。頭の中にひとつのシーンが浮かんでくる。校舎の上の方のベランダから道行く生徒にいじめられっ子が卑猥な言葉を浴びせている。いやヤンキーたちから無理矢理言わされている。いじめられっ子には卑劣を尽くすくせに、体育館での法然コールのような変な学校のルールには律儀に従うヤンキーたち。そういう彼らのへなついた情緒が、アウトプットの仕方は違うにしても、ササキのシャッターにそっぽをむく高校時代の自分たちの矮小さとそっくりだと思った。一方、フォークソングの虜になり、真面目に通信空手など始めてしまうナチュラルな頓珍漢さを持ったイヌもどこかあの頃の自分のような気がして、映画を観ていると何度も恥ずかしくなる。
いじめっ子にも、いじめられっ子にもなれず「不幸なことに不幸がなかったんだ」というその言葉に否応なく共感する小狡さとその大甘な認識こそ、あの頃の自分そのものだった。
校舎の少し先に南禅寺があって、横道から境内へと入れた。二十年ぶりの南禅寺は見覚えがあるような、まるで初めて訪れたような、妙な気持ちになった。夕暮れ近くの境内は人影もまばらだった。
こんなに色づいてきているよ、近くにいた老婆がモミジの葉をもぎって、すぐそばにいた老人に見せる。老人は何も言わず、ほけーと老婆の手に握られた葉っぱを見ている。老婆が躊躇なく境内のモミジをもぎったことに少し動揺した。老婆の手のその先にあのときの南禅寺のお堂があった。
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