「何度も、死ぬほど幸福だと思えた」監督・戸田真琴が映画製作で見た景色【映画『永遠が通り過ぎていく』インタビュー】
Netflix Japan制作のドラマ、「ヒヤマケンタロウの妊娠」を観た。先月、自分の映画の上映後トークのゲストに来てくださった菊地健雄さんが監督の一人をつとめていて、そっと告知していってくれたのだった。彼の作品を語ることは、女性の生きていく上での苦しみについて非常に真摯なものばかりだったので、信頼と期待を寄せつつ、鑑賞した。結果から言うと、とてもよかった。もともと、Netflix Japanの作るものに対しては疑問と抵抗感を感じるものが多く、いつからか自らすすんで観ることもなくなっていたのだけれど、この作品は映像作品というものが社会に与える影響について自覚的で配慮が行き届いていた。重要なメッセージがきちんと伝わるように、という意図を感じるセリフや状況のデフォルメの仕方や、観やすいテンポ感にも好感を持った。フェミニズムや妊娠出産の上で起こる諸問題に対して考えたことのない人にも、考える初めのきっかけを与られるような、明快でよく練られた意思を感じる作品になっていたと思う。
先月の「アネット」評でも書いた通り、フィクションが世間に与える影響は大きい。作品というものは、それが芸術のため、コンテンツを作るため、意見表明のため、エンターテインメントのため、とそれぞれの役割が異なるので何を最優先するべきなのか一概には言えないが、Netflixのような受動的に作品を見る顧客が多いであろう場所において作品から発信されるメッセージが社会に与える影響は、よりダイレクトなものになると言っていいだろう。「全裸監督」が配信された時は世間からアダルトビデオ業界に向けられる目があきらかに変わった。自分も含め、そこに働く人たちのリアルな葛藤や切実さが、ドラマのもつムードに覆い隠され、キャラクタライズされた状態で広まってしまったようだった。それが個人的にはとても居心地が悪くなる現象だったので、色々な意味で参ったのをよく覚えている。みんなが夢中になる”面白い”作品が作れれば勝ち、という考え方もわからなくはないが、それを見た人の価値観や倫理観にどのような影響が及ぶのかについては、いっそう考えなければならない問題だと思う。
「ヒヤマケンタロウ〜」については、そこの部分が非常によく考えられていた。