「叶姉妹の名言」天久聖一の笑いについてのノンフィクション【笑いもの 天久聖一の私説笑い論】第20回

第20回 叶姉妹の名言

【Spotify】叶姉妹のファビュラスワールド

 

Spotifyの人気ポッドキャスト『叶姉妹のファビュラスワールド』では、毎回オープニングに次の言葉が流れる。「たとえ100万人が楽しそうにしていたとしても、そこに楽しめるものがない、この世にたった一人のあなたは無理に笑うことはありません」──さすがに絶対的な個性で、うつろう世間と渡り合ってきた叶姉妹だけあって含蓄のある言葉である。

確かに笑いは、他者との共感を分かち合う善なる行為だけど、だからこそ正直でない笑いは多大なストレスを生む。僕自身もへらへら笑って誤魔化すことが多い人間なので、かっこいいことは言えないけれど、面白くもないのに笑うという行為は、自分を偽るばかりか相手にも誤解を与える。

ああ、この人はこの程度で笑うんだなと思われれば、以後もその程度の話題しか提供されず、自分も以前はあの程度で笑ったから今回もこの程度、いや、場の空気を読んでもう少し早めに笑っておこうという謎の忖度を発揮して笑いはどんどん安くなる──いまの日本のダメさ加減の原因にはこんな不毛なスパイラルがあって、だからこそ叶姉妹は番組の冒頭にこのメッセージを掲げているのかもしれない。

自分が普段何に笑っているか、たまには自覚的になってみるのも悪くない。友達や家族との会話から発生する笑いを除けば、ほとんどがお笑い番組、YouTube、さまざまなメディアから流れるサービス・コンテンツによるものではないだろうか。

お笑いを享受することは全然悪いことではないけれど、提供される笑いばかりを浴び続ければ、次第に自分が何を笑っているのか分からない状態になりそうで怖い。

画面からの笑い声や、世間の評判、SNSに感化され、たしかに声を出して笑いながらも、どこか自分の属するコミュニティについていけるように、自分自身をそう仕向けている。しかし、そんな笑い方は本来の感情と明らかに乖離している。

笑いとはさまざまな感情のブレンドで、楽しい、うれしい以外にも、うっすらと悲しみや切なさ、ときには怒りや憎しみも混じっている。混じり合った色が表情になる。だから笑顔はときに泣いたようにも怒ったようにも見える。

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