「『ドライブ・マイ・カー』の圧倒的質量と笑いの関係」天久聖一の笑いについてのノンフィクション【笑いもの 天久聖一の私説笑い論】第9回

笑いもの 第九回

 

▲『ドライブ・マイ・カー』全国超ロングラン上映中!(PG-12)

(C)2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

 

この連載では、平成のはじまりと共にギャグマンガ家としてデビューした僕自身の来し方を、当時の笑いを交えながら綴ってきた。

それは笑いを語るための足場づくりであり、また「果たして自分にそんな資格があるのか?」という自問作業だったのだけれど、約半年間記憶を漁り出た結論は「そんな資格ねーな」という残念なものだった。

 

ただ、好きなものを語るのに資格が必要かと言うと、まったくそんなことはない。とくに笑いは感情の中でも、もっともパーソナルなものだと思う。

たとえば愛情なら、それを抱く相手の感情を考慮せねばならない。笑いを仕事にする芸人さんなら、もちろんお客さんの共感を得なければならない。しかし、純粋な個人の笑いは本来、誰からも侵害されるものではなく、また何の忖度もいらないものではないだろうか。素直に考えればそんな分かりきったことに、半年かけて気づいたのであった。

 

もっとも、これまでの作業がまったく無駄だったわけではない。自分史を振り返ったからこそ気づいた視点や、揺さぶられた価値観もある。

そこで、今回からは回想ではなく、現在を起点に自分なりの文脈を遡ることで、笑いについて考え直していこうと思う。

 

まずは最近、衝撃を受けた映画『ドライブ・マイ・カー』を取り上げたい。

濱口竜介監督の同映画は、本場のアカデミー賞で作品賞をはじめ4部門にノミネートされるなど、大きな話題になっているのでご存知の方も多いと思う。ただ3時間もある大作の上、いわゆるエンタメ作とは言い難い雰囲気を醸しているので敬遠されている方も多いだろう。

 

観た方がいいと思います。おすすめです。

 

僕は同監督の『偶然と想像』という映画を去年の末、好きな女優さんが出ているという理由で観たのだけれど、まずその作品から滲み出る映画としての格というか、懐の深さに驚いた。

とは言っても、作品自体は3本のオムニバスで、どれもが少人数の会話劇。作りとしてはこじんまりしてる上、そもそも僕はこういうちょっとスカしたというか、アカデミックなテイストが苦手なのだ。

しかし、作品に充溢しているエネルギーは異様なほどで、それが極めて緻密な脚本と独特の演出の上に成り立っていることがわかる。

びっくりして、この監督な何者だろうと調べたら、すでに世界が注目する俊英で、脚本を担当した黒沢清監督の『スパイの妻』はヴェネチアで銀獅子賞をとっている。ホンの上手さは折り紙付きなのだ。

 

『偶然と想像』は前半の何気ない会話が、ある時点の秘密の開示から、どす黒い闇を孕んだ演技だったと分かったり、相手を追い詰めるための言葉が、いつの間にか自らに向けた刃に変わったりと、実に巧みなサスペンスを構築している。

特に、第二話「扉は開けたままで」の芥川賞作家に女生徒がハニートラップを仕掛ける話は、エロの加圧が増すほどシーンは間抜けに浮き上がるという、完全な変態コントになっていて笑いと勃起が止まらなかった。

ただ上手いというだけではなく、しっかりとしたクオリティを確保した上で盛大に弄っている。地力がなければ出来ない所業だ。

 

そして『ドライブ・マイ・カー』である。原作は村上春樹の複数の短編をミックスしたものだけど、そこにチェーホフの『ワーニャ伯父さん』が原作以上の比率で扱われ、主人公の妻が語る不穏な物語(これは原作のエピソードだけど、オリジナルの続きがある)があって、演じること/物語ることのメタ構造があり、ロードムービーがあって、でもしっかり震災のその後に向き合った再生の物語でもある。ちなみに濱口監督は震災後、東京藝大の要請を受け、被災者たちの膨大なインタビューを元にしたドキュメンタリー三部作をものしている。鍛え方が違うのだ。

 

3時間の長尺に、これでもかと重ねられたレイヤー数と編み込みがハンパない。ポストモダン風に言うと幾通りもの読み解きができる隙のないテクストに仕上がっていて、だからこそ海外の評価が高いのだろう。評論に関しては、門外漢の僕でも本作が映画批評のコアなマナーに則っているのがわかるし、監督の知性は明らかにそれを狙っている。

 

それにしても、笑いをテーマにしたコラムでなぜ『ドライブ・マイ・カー』なのか? それは同作が笑えるからに他ならない。そして、なぜ笑えるかというと、この作品の持つ質量が圧倒的だから、つまり「すごい」からだ。

どんなジャンルの作品でも、たとえそれが笑いを目的にしていないものでもすごいものは「笑える」。エヴァにしてもAKIRAにしても千と千尋にしても、圧倒的な作品を目の当たりにしたとき、人はその言葉にできない感情を吐き出すように笑ってしまう。

いまなぜか偶然、アニメ作品ばかりを並べてしまったが、ドストエフスキーや大江健三郎で笑う人もいるだろうし、なんならめちゃくちゃ切り立った崖や、びっくりするくらいグロい深海魚を見て笑う人もいるはずだ。だって、すごいもん(笑)。

 

笑いとは──(と、いきなり本来のテーマに戻るけれど)冒頭で述べた通り、極めてパーソナルな感情で、誰からの干渉も受けないものだと思う。

ただ現在、世間がなんとなく共有している笑いのイメージは、言ってしまえば芸人とテレビ業界が長年かけてつくりあげてきた共通認識であって、それがかなり深いレベルで私たちの自然な笑いを操作しているような気がするのだ。

これは芸人さんたちに向けた批判ではない。なぜならバブル以降のまるで永遠と言っていい長い停滞期に、なにより笑いを求めたのは他ならぬ大衆側であって、その要請に応えられたのが極めてポテンシャルの高い芸人たちであり、高度にマーケティング化されたテレビ・広告業界がそれに乗ったに過ぎないからだ。支配や教化はつねに双方の無意識的合意でなされるものなのだ。

 

はじまりはやはりダウンタウンの、松本人志氏の登場だと思う。

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