天久聖一がおくる笑いについてのノンフィクション【笑いもの 天久聖一の私説笑い論】第6回

笑いもの 第六回

 

▲『伝染るんです。」第1巻 吉田戦車

 

刑務官を辞めて、神戸から上京したのは1988年の年末だった。

年が明けてすぐに昭和天皇が崩御して、平成がはじまった。

翌月の2月9日、手塚治虫が亡くなった。同じ日にデビュー作が載った『パンチザウルス』が創刊した。

つまり僕は神様が死んだ日にデビューしたのだった。

本当になんかもう……申し訳ございません! こんな関係ないヤツが!

おそらくその罰であろう。『平凡パンチ』の後継誌として華々しく創刊された『パンチザウルス』はたった四カ月で休刊し、僕はいきなり仕事を失った。

 

しかし、落胆よりもようやく娑婆に出られた開放感の方が強かった。

編集者が借りてくれた井の頭沿線のワンルームに住み、半年ほどぶらぶらしてるうちに、宝島や小学館からぼちぼち仕事が入るようになった。

世はバブル全盛で、僕の意味不明なギャグマンガでもおこぼれに与れたのだった。

 

笑いと景気は直結する。恥ずかしいくらいに。

景気が悪いときの笑いは、保守で自閉的でハートウォーミングだ。つまりベタな内輪ウケで誰も傷つけない笑いが好まれる。逆に景気のいいときの笑いは、過剰で攻撃的でシュールになる。

単純に余裕の問題だ。貧乏人はリスクを嫌う。確実に自分を肯定してくれるささやかな癒しを求めている。一方、金持ちは刺激を求める。消費のための消費は性的快感と違いなく、無価値なものにこそ金を払う。感覚の麻痺した彼らにとって笑いはむしろ、わけが分からないくらいがちょうどいい。

当時の不条理マンガブームの背景には、誰もが浮かれたバブル景気があった。

 

不条理マンガの代名詞、吉田戦車さんの『伝染るんです。』が始まったのも同じ年だった。

秘かに「次はこの人だろ」と思っていた作家が、スピリッツの巻末という檜舞台で、掛け値なしのブームを巻き起こしている。やはり自分には先見の明がある。戦車さんの活躍が我がことのように誇らしく感じられる……はずがなかった。

 

なぜそれが自分じゃないのかっ!!!!!!!!!

 

駆け出しギャグマンガ家にとって、それは正直、とてつもなく悔しく、また羨ましい光景だった。

 

どんな分野でも創作に関わる人なら分かってもらえると思うけれど、同世代(戦車さんは5歳年上だけど)のとても敵わない才能を目の当たりにしたとき、人はなんとかそれを理解可能な文脈に当てはめ「こんなもん自分でも出来る!」と思い込もうとしたり、敗北を認めたとしても「でも、この点だけは俺が勝ってる!」と信じようとする。

 

もちろん、そんな内面を晒せば、余計自分が惨めになるだけなので、表面上は「面白いよね」で済ませているが、腹の中では『たしかに面白いけど、君がその面白さをどの程度分かっているかは甚だ疑問だし、このマンガの良いところは世界中で俺が一番分かっている。もっと言うと、この作者が何に影響を受け、どんな狙いでこの作風を編み出したかについても大体の見当がついているし、だからこそ惜しい点もいくつか指摘できる。まあ、現時点で俺はこの人に敵わないが、部分的には勝っている点もある。今日はその勝っている点だけでも覚えて帰って下さい!』という思いが煮えたぎっている。

 

それから三十年──。かつて抱いた嫉妬や羨望はノスタルジーに変わり、当時はとても素直に言えなかった作品の面白さを、いまはどんな風に伝えようかと考えている。歳を取るとはこういうことかと、情けなくもうれしい気がする。

 

『伝染るんです。』を語るにはまず、その前にスピリッツ巻末で連載していた『コージ苑』に触れなくてはならない。『コージ苑』こそがスピリッツ巻末を、最新ギャグのトップブランドに押し上げた立役者なのだ。

 

『コージ苑』の作者、相原コージ先生を初めて知ったのはたぶん宝島で、そのあとに読んだ『ぎゃぐまげどん』は最高だった。単行本のタイトル通りギャグに真正面から挑むストロングスタイルで、なによりネタの引用元がいちいちドンピシャだった。ザ・スターリンの遠藤ミチロウがギャグになっている──田舎のサブカル少年を味方につけるにはそれだけで十分だった。

いまの芸人風にいうと「手数が多い」のが持ち味だった。非モテ男子を執拗に煽る作風は青年マンガのギャグとしては王道だったのかもしれない。

 

相原先生は『コージ苑』でも冴えない若者のリアルを徹底して描き、更にはそれらのピースを宗教的スケールの物語に束ね上げた。聖書のごとき大洪水ですべてを押し流す『コージ苑第二版』のラストには、いま読んでも笑いの果ての、深いカタルシスを覚える。

 

大胆な構成をとる一方、ギャグへの姿勢は極めてストイックで、ギャグマンガの文脈を丁寧になぞるものだった。系統的にはいがらしみきおの影響が色濃く、『コージ苑』には『ぼのぼの』以前の哲学路線を引き継いだ感がある。

ナンセンスギャグは答えのない自問自答の果てに、どれだけ飛躍するかという神経を削る作業である。たいていのギャグマンガ家がそのせいでクラッシュする。

 

いがらし先生はいったん休筆に入り、『ぼのぼの』の禅的境地へ移行することでそれを回避した。相原先生は竹熊健太郎氏との共著『サルでも描けるまんが教室』によって、ギャグマンガの更なる自己言及へと舵を切った。

それはどちらも狂気をかいくぐった作家によるポストモダンな方法だったけれど、『伝染るんです。』は突然、ほとんど苦もなく同じレベルのステージに現れた印象がある。

 

もちろんマンガ家が、なんの苦もなく自分のスタイルをつくれるわけがない、と思いたい。マンガ家に限らずあらゆる作家は限界まで悩み抜き、ついに諦めた落下のポーズが、その人独自の作家性になるものだ。

 

作品の印象が飄々としているので、『伝染るんです。』は類いまれなセンスのみで描かれたように映るけれど、後年読み返すと試行錯誤の跡がよく分かる。

実際『伝染るんです。』のあと書きによれば、『コージ苑』の後釜に対して相当の躊躇があったようだし、四コマを描くこと自体にも抵抗があったらしい。

 

たしかに『伝染るんです。』以前の初単行本『鋼の人』(名作!)は、四コマではなくショートストーリーだった。話自体はSFや任侠モノのパロディだったけれど、出てくるキャラがことごとく常軌を逸していて、独特の世界観を作っていた。

 

いったいこの奇妙な味の出どころは何なんだ?

部分的には畑中純や鈴木翁二といったガロ系のテイストを感じた。吉田さんは自販機本出身なので吾妻ひでおの影響もあるはずだが、僕はその方面にぜんぜん疎かった。

今回この原稿を書くために読んだ『吉田戦車の漫かき道』によれば、幼少期は『冒険王』で連載していた板井れんたろうや石ノ森章太郎のギャグにハマり、中学時代は『COM』の流れを汲む『マンガ少年』に傾倒したという。

スターウォーズ・ガンダム・萩尾望都などのキーワードからすると、僕が憧れつつもよく知らないオタク第一世代が受けた洗礼をまともに浴びたことが分かる。戦車さんは僕より5歳上だ。

 

それで少しだけ氷解した気がした。

吉田さんの作品にはまず、出身地岩手で培われた民俗的風景があって(岩手と言えば遠野物語だ)、ガロ由来の叙情性がある。そこにトキワ荘から連綿とつながるSFマインドとセンス・オブ・ワンダーが加われば、あの世界観が立ち上がるのではないか。

やはり吉田戦車は突然現れたわけではなく、それどころか最も正当な手続きを踏んで登場したマンガ家なのだった。だからこそ当初は四コマに苦手意識があったのだろう。本来ストーリー志向のマンガ家からすれば、四コマは小説家が俳句をひねるようなものかもしれない。

 

そして実際『伝染るんです。』は俳句に近いアプローチで描かれたようにも思える。起承転結のテンプレで笑いをつくるというより、ある情景なり気分を四つのカットであらわす──『伝染るんです。』で指摘されるオチの不在や、起承転結の入れ替えも、それならある程度納得できる。

 

特筆すべき点はまだある。

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