極私的『北の国から』論【大根仁 2021年4月号 連載】

おおね・ひとし●映像ディレクター。ドラマ『共演NG』、ParaviひかりTVにて配信中。

俳優にとって“当たり役があるかどうか”は、役者人生においてとても重要なことであるが、同時に俳優としてのパブリックイメージがその役と同化してしまうという問題も起きる。最もわかりやすい例は渥美清=寅さんだが、田中邦衛=五郎さんも双璧と言えるだろう。

渥美清が『男はつらいよ』の盆暮れ年2回公開が定着した1980年代以降、「寅さんのイメージを壊したくない」という理由から他作品への出演を減らしたエピソードは有名だが、同じ頃にドラマ『北の国から』で五郎さんのイメージが定着した田中邦衛は、映画やドラマの他作品に、主に脇役として出演し続けた。連続ドラマ以降の『北の国から』が『男はつらいよ』と違って、数年に一度だけ撮影・放送されるスペシャルドラマだったというスケジュール的な理由もあると思うが、国民的ドラマと称された作品の主役にまで上り詰めながら、田中邦衛ほど多ジャンルの作品で脇役を演じた俳優も珍しいのではないか。

一方で、“プロ『北の国から』ウオッチャー”を自認するオレから言わせてもらえば、『北の国から』で五郎が主役だったのは初期連続シリーズと、その後のスペシャル版の2作品『‘83冬』『‘84夏』までである。有名なセリフ「子どもがまだ食ってる途中でしょうが!!」を最後に、次作『‘87初恋』以降は純の成長(恋愛)物語が中心となり、実質的な主役は五郎から純へと代替わりした。

『北の国から』の主役は子どもたち=純と蛍であり、自分はあくまでクレジット上の主役に過ぎないと、田中邦衛本人が何かのインタビューで言っていたが、それはおそらく初期連続シリーズの段階で、既に思っていたことなのではないか。つまり田中邦衛は『北の国から』における黒板五郎は脇役だと言いたかったのだ。渥美清=寅さんとの大きな違いはここにある……と、田中邦衛さんの死去を機に、自分の人生を決定付けた『北の国から』に関してちゃんと文章としてまとめてみようと書き始めたのだが、さすがに最終作『2002遺言』から約20年が過ぎ、たまにDVDで見返すことはあっても、かつてほどの熱量は無い……。

そこで思い出したのが、mixiや友人同士しか見ない今は消滅したサイトで、誰にも頼まれていないのに書いていた、いくつかの【極私的『北の国から』論】的なものだ。ハンパなテンションで書くよりも、それらをコピペした方がオレの「北の国から」や田中邦衛さんへの思いが伝わると思うし、今ネットで「大根仁 北の国から」で検索してもヒットしないので、Wordファイルの奥底に沈殿していたブツをサルベージし、転載させていただきます。言っておくけど長いぞ! そして当時のオレ、どうかしてる!!

まずは、2002年の『遺言』放送前に、おそらくmixiに書いたブツ。「じゃあmixiで読めるじゃん」だって? もう誰もやってないだろmixi。自分すらパスワード忘れてログインできないわ!

【 『北の国から』考察~五郎の帽子コレクション展~】

いよいよ『北の国から』が終わる。
のべ20年、自分が一篇のドラマにこれほど長く付きあう羽目になろうとは思わなかった。連続シリーズ放送当時、誰もが予想できなかったことであろう。

面白いデータがある。「14.8%」。連続シリーズ全24回の平均視聴率である。1983年当時、金曜夜10時というのはまだ大人の時間帯であった。
TBSの金ドラ、テレ朝では仕事人シリーズ、フジTVはこの時間帯にドラマで勝負を賭けた。今振り返って観てもとんでもない金の掛け方なわけで……。
ましてや田中邦衛、誰も知らない子役が主役というのはどう観ても地味なわけで……。有名な話ではあるが、連続シリーズの後半、純が石を投げつけて追い払ったキタキツネが何ヶ月かぶりに戻ってきて親子3人で餌をあげるシーン、あれは「純が石を投げつけた」直後に撮影されたものである。
どういうことかというと、あのキタキツネは動物プロダクションの仕込みなどでは当然無く、リアルなキタキツネを餌付けしたもので、つまり気まぐれにやってくる野生動物を相手に「たまたま来た」時に、後の脚本にあてはまるシーンを即興的に撮影していたのである。つまりどういうことかというと、初期の話を撮っている時に後半の脚本がもう出来上がっていたのである。あえて情緒の無い言い方をすると「せっかくだから後半のあのシーン、ついでに撮っておきましょうよ、あのキツネ、次いつ来るかわかんないっすよ」ということだ。
1年で12センチ伸びたはずの蛍の身長が、あの後半のシーンだけ急に縮んでいるのは御愛嬌。

何が言いたいのか? 脚本作りのシステムについて語りたいのだ。
今のドラマは1クール(3ヶ月)12本が基本。ところが脚本が撮影前から全て出来あがっていることは、まず、無い。視聴率の動向を見るためだ。
初回、もしくは2、3回の数字を見てその後の展開を考えるのだ。
「この路線ではダメだ。もっと展開を早くして」とか「新たな登場人物を出して新味を加えよう」とか「誰かを殺して緊迫感を煽ろう」とか……
どういうことか? 作り手に自信が無いのだ。視聴者の顔色を伺いながら話の筋を変えていくのだ。
『北の国から』は腰が座っていた。ドーーーーーン。当時でも珍しい2クール(半年)放送。しかも放送開始時には全ての撮影を終えていたという。
始まりからして凡百のドラマとは姿勢が違うのだ。

『俺たちひょうきん族』と『北の国から』。同時期にフジTVで放送された2つの番組。個人的なことを言えば、この2番組によって自分の進路を決められたと言っても過言ではない。じゃあお前はあれほどのすげえモン作ってんのかよ!?と問われれば黙るしかないわけで……

当時の時間帯の話をしたが『ひょうきん族』もそうだったのだ。
裏のTBS 『8時だよ! 全員集合!! 』という怪物に対して無名の漫才師たちという戦士が立ち向かい、見事相手の視聴率を失墜させ、ついには番組終了に追いやったのである。フジTVのその後の快進撃はこの2つの番組から始まったのだ。

閑話休題。話を戻そう。巨額の予算と、長期のスケジュール、膨大なスタッフ数、富良野という田舎町を巻き込んでの大々的な撮影。に、対しての地味なキャスティング。これはもう奇跡や美談などではなく「ギャンブル」である。
そして、もうひとつ注目すべき点は脚本家・倉本聰がこの「北の国から」を描くきっかけになったのは、NHKの大河ドラマの降板による東京から北海道への逃避行という所も興味深い。倉本聰もまた、自らを追いやったTV業界に対してのルサンチマンの思いで『北の国から』を作ったのだ。

まとまりの無い文章になってきたが、つまりは『北の国から』は、今となっては「国民的ドラマ」などと呼ばれているが、作り始めた頃は既存の概念や、成功者に対する「ぜってーに見返してやる!」的な、いわばパンク精神の塊だったのだ。

「14.8%」。当時、万年3番手だったフジTVのその後の躍進の礎となった番組のこの数字は、決して恥ずべきものではない。
数字内の密度が尋常ではないほどに「濃かった」のである。

この項・おわり。

「濃かった」のである……じゃあねえよ。お前の方が濃いわ。
続いては、同じくmixiに書いたと思われるブツ。

 

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