岡村靖幸・浦沢直樹

岡村靖幸×浦沢直樹 対談「負荷があったからこそ、生まれた名作がある」

マンガ文化と、ボブ・ディランと、『火の鳥』と

 

10月の間、「マンガ」をテーマにお届けするTV Bros.WEBの「マンガ大特集」。本日は今年の1月、TV Bros.note版に掲載した岡村靖幸×浦沢直樹による対談をTV Bros.WEBでも公開!


雑誌 TV Bros.で連載中、岡村ちゃんが気になる人に根掘り葉掘りインタビューする『あの娘と、遅刻と、勉強と』。今回のお相手はマンガ家であり、ミュージシャンでもある浦沢直樹さん。『漫勉』や日本のマンガ文化など、マンガについてたっぷり語りつつ、ボブ・ディランやジョン・レノンなど音楽についても話題が広がる対談となりました。(TV Bros.2021年2月号掲載分に追加分を加えたものです)

 

おかむら・やすゆき●1965年生まれ、兵庫県出身のシンガーソングライターダンサー。

うらさわ・なおき● 1960年、東京生まれ。漫画家。1983年、『BETA!!』でデビュー。代表作に『YAWARA!』『MONSTER 』『20世紀少年』など。小学館漫画賞を三度受賞したほか、国内外での受賞歴多数。現在、最新作あさドラ!を小学館「ビッグコミックスピリッツ」にて連載しながら、ミュージシャンとしても精力的に活動中。『浦沢直樹の漫勉neo』(NHK E テレ)では、プレゼンターと構成を務め、マンガの面白さ、奥深さを紹介している。

  取材・文/前田隆弘 編集/土館弘英
     ヘアメイク/マスダハルミ

自分は本当の意味でのメジャーではない


岡村 週刊連載って本当に大変だと思うんですよ。浦沢さんほど実績があれば、「もう俺は週刊連載は降りる。それでいいものを年に2~3本描く」みたいなやり方でも周りは認めてくれそうですけど、そうしようとは思わないんですか?

浦沢 いま連載しているのは『ビッグコミックスピリッツ』という週刊誌なんですけど、すでに「もう週刊連載は降りるよ」なんです。それは『BILLY BAT』からのペースなんですけど、24ページくらいのものを月に2本描く。だから月に大体50ページ弱くらい。それが自分の健康を保つのにギリギリのペースなんじゃないか……というのが、30年以上やってきた上での体感です。それを超えると危険を感じるので。描いたものを隔週連載にするのか、集中連載にするのかは雑誌と相談しながらやってますね。

岡村 浦沢さんのインタビューを読んでいて意外だったことがあって。僕は浦沢さんって「ヒットすること」「たくさんの人に読んでもらうこと」そういうものにこだわっているから何十年も一線でやってこられたのかと思っていたんですけど、インタビューでは「結果的に売れたけど、『売れなくちゃ』と思って作ってるわけじゃ全然ない」とおっしゃってて。

浦沢 ああ、それはそうですね。「売れ線はまったく考えたことがない」というくらい考えたことがないです。『YAWARA!』については、まずそれを思い付いちゃったんです。思い付いちゃって、「これはヒットしちゃうな。でもまさか俺がこんなもの描くわけないよな」という感じでした。それで「どうしよう」と思ったんです。いろいろ考えて、「でも俺がやるんだから違うものになるという確信はある。じゃあ試しにやってみるか」と始めてみたら、『YAWARA!』のあの状態になっちゃった。

岡村 社会的なヒットに。

浦沢 それは僕のマンガ人生の中で、やっぱり特別な経験でしたね。

岡村 でも『20世紀少年』も大ヒットしたし、その他のマンガも大ヒットしてますよね。

浦沢 たとえて言うなら、「水面に石をポーンと投げたとき、どのくらいの波紋が広がるか」というイメージはあるんです。その波紋がそのままヒットを意味するかどうかは分からないです。あくまでも「ざわつき」という意味であって。水面に石をポーンと投げて、ジャバーンとなる「ざわつき感」を見てみたいという、そういう感じです。

岡村 でもそれでヒットするわけだから、希有な方だなと思って。ほとんどのマンガ家は、とにかく売れたくて描いてるはずだから。

浦沢 でもね、自分でこれ言うのも変だけど(笑)、僕のマンガってだいたい100万部が上限で、それ以上売れないんです。だけど大ヒットしたマンガって、300万部いくんですよ。そこに本当のメジャーの壁があるなという感じがしますね(笑)。僕が本当の意味での売れ線を狙ってないところが、そのへんに出てるのかもしれない。

岡村 それは高いレベルのステージの話ですよ(笑)。「いつもベストテンに入ってるけど、1位を取るのは難しいよね」みたいな話で。ご自身で意識してない中で、ヒットに対するセンスが身についてるんじゃないでしょうか?

浦沢 これは編集者から聞く話なんですけど、新人賞に応募してくる新人の作品を選ぶとき、絵もストーリーも突出したものがあれば、もちろんそれを選びますよね。でも突出した作品がなくて、みんなそこそこのレベルというときには、やっぱり「何か読んじゃう」という人を選ぶんです。絵はあまり上手くないんだけど、何か読んじゃう。スッと入ってくる。そういう資質を持った人がまず1段上に行くんです。だから僕なんかは、きっとその最たるものなんじゃないかと思うんです。ちょっと変な話や小難しい話でも、その資質でチャレンジすれば、読めるものになっていく……自分はそういうマンガ家だという気がしますね。
                                                       

                                                       

昔より今のほうがテンポは遅い


岡村 発表した当時は売れなかったけど、時代を経ることで売れたり評価されたりすることが、音楽ではあるんです。浦沢さん、どこかでおっしゃってましたよね。はっぴいえんどが昔から評価されていたというのは……。

浦沢 マニアが作った捏造だという話ね(笑)。一部のマニアが「いいよね」とは言ってたけど、当時の普通の人たちは誰も知らないバンドだった。

岡村 それが今では歴史的なバンドとして知られているわけですよね。それはやっぱりいい音楽だったからだと思うんです。だから風雪を乗り越えられたし、マニアの人たちも捏造したくなるほど応援したい気持ちになったわけだし。

浦沢 その良さに、当時の一般の人は気づかなかった。

岡村 音楽ではそういうことがあるんです。後になってその価値が分かって再評価されるというようなことが。マンガでもそういうことはあるんですか?

浦沢 ありますよ。「今こそ読むべきだ」みたいな作品。たとえば、つげ義春さんみたいな作家は、出たときにポーンと100万部いくわけではなく、何十年もかけてじわじわ読まれていくわけじゃないですか。

岡村 時代のテンポ感についてはどう思いますか? 僕、60年代、70年代のコントやテレビ番組を見ると、テンポが遅いと感じてしまうんです。当時はそう感じていなかったのに、いま見るとそう感じてしまう。だから少なくともお笑いは時代と共にテンポが上がってて、きっと他のジャンルの名作でも「内容は素晴らしいけどテンポ感が合わない」ということはあるんじゃないか、と思ってるんですけど。

浦沢 それについては申し訳ないんだけど、僕はまったく逆に思ってます。昔のほうがテンポが速くて、今は遅いんですよ。すべてが遅いと思ってる。

岡村 そうなんですか。それはすべて?

浦沢 お笑いもマンガも映画も、確実に今のほうが遅い……と思ってるんです。僕はね。たとえば映画だと、昔はセリフのやり取りが異様に速いんです。チャカチャカしてて、何を言ってるのか分からないくらい。今は一言一言分かるように、間をしっかり空けてしゃべっている。それはマンガでもそうで、昔の作品はギュッと凝縮されているんです。『あしたのジョー』は20巻、『巨人の星』は19巻なんですけど、今の時代だったら(同じ内容で)平気で50巻、60巻いくと思うんです。(『巨人の星』の)花形満が大リーグボール1号を打つとき、すんなり打ちますからね。あれ、今のマンガだったら引っ張ると思うんです。アニメ版は引っ張ってたんですけど、それは「引っ張って時間を稼がないと原作に追い付いてしまう」という理由があったからなんですよ。でもそうやってアニメで引っ張ったことで、「このやり方でいけるんだな」と思われてきて、だんだん遅くなっていった……ような気がするんです。

岡村 そうだったんですね。読み直してみます。僕は昔のマンガって、『アストロ球団』(*)の印象が強かったんですよ。「1試合をずっとやってるぞ」みたいな。

*1972 年から週刊少年ジャンプに連載されたスポ根野球マンガ。アンケートの内容を元に、編集者とマンガ家がその後の展開を検討していく「ジャンプ的なマンガ」の先駆けとも言われている。作中のアストロ球団VSビクトリー球団の試合は、(週刊連載なのに)約2年の連載期間をかけて描かれた。

浦沢 そうだね、あれは確かに長い(笑)。

                                                       

                                                       

「みんなマンガをなめくさってる!」から生まれた『漫勉』


岡村 『漫勉』(*)、全部見てますけど、本当に素晴らしくて。宝のような番組ですね。(鶴の恩返しで)鶴が機織りしてるところを覗くような。

*普段は立ち入ることができない、マンガ家たちの仕事場にカメラが密着し、その映像をもとに浦沢直樹が同じマンガ家の視点から切り込んでいく番組『浦沢直樹の漫勉』(NHK Eテレ)。2015年に断続的に放送を開始、2020年に装いも新たに『浦沢直樹の漫勉neo』として再開。

浦沢 まさにそれ(笑)。

岡村 あれは後世に残る番組だと思うんですけど。あれに出演されるマンガ家の方は、一人一人スタイルが違うわけじゃないですか。ずっと見ているうちに、同じマンガ家として影響を受ける部分もあったりするんですか?

浦沢 ええ。もともと子供の頃から、マンガを読んでは真似し、テレビでアニメを見ては真似し……というのをずーっとやってきて、それで自分の絵が出来上がったんですよね。このところはそういうことがなくやってきたんですけど、『漫勉』を始めてからはやっぱり会う人ごとに影響を受けますね。番組にするために研究していると、「あーなるほど」と思って、そのうちに「ちょっと自分で描いてみよう。なるほどこういうことか」となってきて。だから子供のときと一緒で、こっちの絵柄も変わるという(笑)。

岡村 浦沢さんは出演するだけじゃなく、番組のいろいろな部分に関わってらっしゃるんですよね。

浦沢 元々、僕が持っていた番組のコンセプトを、企画会議で説明したんです。会議室のホワイトボードに画面構成とか描いて。「ここで作画を流しっ放しにしてくれ。話してるところは小さい画面でいいから、とにかく作画の画面を途切れさせないでくれ」みたいなことを言って。対談の部分についても「プロ同士の話にさせてくれ」と言ってます。分からない単語が出てきても、脚注をつければいいからということで。そういうのを1画面にして『24』みたいにやれないか……というのをNHK側に要望したんです。

───人選も、番組構成も、マンガ好きの人にちゃんと訴求するような内容になっていると思っていましたけど、そういうディレクションがあったからなんですね。

浦沢 元をたどれば、子供のときからの思いがあるんですよ。僕がマンガを描いていると、友達に「浦沢はマンガがうまいな」と言われたり、親戚のおじさんから「直樹くんはプロになれるぞ」と言われたりするんですけど、「この人たちは何も分かってない!」と思ってたんです。僕は当時、8歳くらいだったんですけど、「こんなレベルでプロになれるわけないじゃないか。みんなマンガをなめくさってる!」と思ってたんです。その思いが今でもずっと続いているんですね。「みんなマンガを知らなさすぎる」という。

───特に昔は、マンガというジャンルは社会からなめられていたところはありましたよね。

浦沢 だから僕、「マンガの(すごさを伝える)アンバサダーとしてならテレビに出ます」と言ってたんです。それでいくつか出たんですけど、そういうときは相手がマンガの知識が0という前提でスタートするから、1にたどり着けないまま終わったりするんです。「もっと違うやり方で見せる必要がある」という話を放送作家の倉本美津留さんにしてたら、「浦沢、お前が自分でMCやるしかないわ」と言われたんですね。それで「確かに他の人はやれないかもしれない。じゃあ自分でやろう」と思って、『漫勉』を始めたんです。『漫勉』はプロ同士だから、5から始めて10のところまで皆さんにお見せできる。だからあの番組は僕らの心の叫びなんです。「みんなちょっと一回現場を見てくれよ。みんなが今まで思ってたマンガのイメージとは全然違うから」という。その感じがあるから、出演してくれる先生方も意気に感じてくれてるのかもしれないです。

岡村 そうですね。浦沢さんが出ることで説得力が出ますから。「浦沢さんだから」ということで、ゴーを出してるマンガ家の方もたくさんいると思います。

浦沢 そう言ってくださる人もいるんですよ。本当にありがたいですよね。

 

作曲=ネーム作り?


岡村 浦沢さんは音楽もやるからお聞きしたいんですけど。音楽でいう作詞・作曲……「どういう曲にするのか」という根っこの部分は、マンガでいうとネーム作りになるんですか?

浦沢 いや、違いますね。まず落書きがあるんです。まったく意味のない落書きをよくするんですけど、それは音楽でいうとギターを適当に弾いて、鼻歌でメロディが浮かぶみたいな感じなんですね。「お、これはいいな」なんつって。鼻歌で作ったけど、しっくり来る詞がつけられなくて、ほったらかしにしてるメロディ群がたくさんあるんです。だから詞を作るのと、ストーリーを作るのは、僕にとっては同じことなんですよ。「その落書きに意味を持たせる」「そのメロディに意味を持たせる」、そこから作業が始まる。だからネーム作りは作曲じゃなくて、譜割りを考えているようなものですね。

岡村 じゃあ作詞・作曲ができた曲について、「実際にレコーディングします」「歌を歌います」「ここはこう歌いましょう」「ギターを録ります」「ここはこういうふうに弾きましょう」みたいにいろんなプレイやアレンジをすることに当たるのが、『漫勉』で映している場面なんですか?

浦沢 そうです。レコーディングだと、「テイク1でモノにしなきゃ駄目だ」みたいな場面、あるでしょ。絵も最初のペン入れでモノにできないと、そこからホワイト、ホワイトで訳分かんなくなってくる。そういう場面を映しているんです。

岡村 見ててすごくスリリングですよね。見せどころだから。

浦沢 そうです。歌を歌ったりギター弾いたりするところですよ。チョーキングでキューン!みたいな。

岡村 カッコいい!みたいな。誰か『漫勉』の音楽バージョンをやってくれないですかね? 僕は嫌ですけど(笑)。

浦沢 レコーディングに張り付いてね。

岡村 そう、タイトルは『音勉』で。マンガ家でいう浦沢さんくらい説得力があって、人望があるミュージシャンが、興味のあるミュージシャンを説得して、作詞・作曲してるところは無理だろうけど、レコーディングしてるところを見せてもらうという。

浦沢 漫画家さんにとっては一番デリケートなネームの作業は、さすがに遠慮しているんです。ただ、僕の回だけはネームの部分もカメラに入ってもらったんです。言い出しっぺの責任があるから。

岡村 『音勉』、誰かやってくれないかな。面白いと思うんだけどな。マンガって締切がしっかりとあるお仕事だから、「このままだと間に合わない。俺の中では67点だけど、出してしまおう」というときはないんですか? 単行本のときに修正すればいいだろう、ということで。

浦沢 その時点では必ず、自分の中で90点以上のものを出してます。ただ、後でちゃんと採点してみたら67点だったというときはあります。

岡村 じゃあ自分の気持ちの中では、67点のものは出していないわけですよね。連載でそれをやるのは、僕らが思っている以上に大変なことじゃないですか?

浦沢 週刊誌と隔週誌の連載を20年間くらいやってたんですけれど、月に6回締め切りが来るみたいな状況でしたね。

岡村 月6回……。

浦沢 『MASTERキートン』と『YAWARA!』とか、『MONSTER』と『Happy!』とか、そういう感じ。それを20年くらいやってたんです。それってやっぱり人間の生活じゃないですよね。

 

手塚治虫のスケジュール


岡村 多忙にしているマンガ家の方って、亡くなるのが早いイメージがありますね。

浦沢 そう。でも手塚先生のスケジュール表を見たら、僕の忙しさなんか手塚先生の5分の1くらいなんですよ(笑)。

───「こんなの人間の生活じゃない」と浦沢さんがさっき言ってた、その5倍の仕事量をやっていたと。

浦沢 手塚プロダクションの人に、1977年11月のスケジュールを見せてもらったことがあるんです。まず毎週『マガジン』『チャンピオン』と書いてある。それが『三つ目がとおる』と『ブラック・ジャック』なんです。それで月に2回、『ビッグコミック』と書いてあるのが『MW (ムウ)』なんですって。さらに月刊誌で『希望の友』というのがあって、これが『ブッダ』。これも月刊誌で、『漫画少年』と書いてあるのが『火の鳥』なんです。あと『サンリオ』という雑誌で『ユニコ』。それ全部、ひと月の中で並行して描いているんです。もうどうかしてるでしょ。それは死にますよね。

岡村 大変すぎます。

浦沢 手塚先生が亡くなったのって、今の僕の年齢(60歳)なんですね。僕もそういう年になっちゃった。「手塚先生、こんなに若くして亡くなったんだ」と思いますね。石ノ森(章太郎)先生も同じ年齢です。

岡村 さっき言ってた作品、傑作だらけですね。モチベーションがすごかったんでしょうね。

浦沢 しかもその間に「試写会」「試写会」「講演会」とか書いてあるんです(笑)。「何考えてんの?」と思った。当時は手塚番の編集者が外で勢揃いして待ってて、「俺が先だ」「うちが先だ」ってケンカになるんですって。だから手塚先生はケンカにならないように、トランプ配るみたいに原稿出してたって(笑)。それでそれぞれ話が通ってるという。月に500とか600枚ですからね。僕は頑張っても140、150枚くらいでしたから、ちょっと信じられないペースですね。

なぜ日本でマンガ文化が隆盛したのか


浦沢 マンガ週刊誌という文化が、僕とちょうど同い年くらいなんです。1959年に『マガジン』『サンデー』が出たのが週刊誌の始まりなんですけど。最初は編集部も編集者もマンガ家も「週刊でマンガを描くのは無理」と言ってたんです。でもマンガがあまりにも人気出てきたから、「週刊でやってみたらどうなるのかちょっとやってみよう」くらいの感じで始まったんですね。そしたらそれがドーンと行っちゃった。1968年には『ジャンプ』が追っ掛けて、その翌年には『チャンピオン』も出てきて。そうやって週刊誌市場がどんどんどんどん膨れ上がって、マンガ家も「この世界で1位を取るのが日本のマンガ界を制することだ」みたいに思うようになったんでしょうね。だからそこからみんなでその1位争いを始めて。あとは「週に連載を何本持ってるか」という争いも始まった。おかげであっという間にものすごい作品群になって、「世界に冠たるマンガ文化」というものが一瞬にして形成されるんです。僕が8歳くらいのときに『マガジン』が80万部くらいで、小学校高学年のときには100万部に手が届きそうになってた。そうやって部数が伸びていって、『ジャンプ』が到達したのが653万部です。それが1995年。

───ということは、日本のマンガ文化が隆盛したのは、週刊誌が一気に盛り上がったことが背景にあるし、それはある意味、作家の寿命が削られていく上に成り立っていた……みたいな部分もあると思いますか?

浦沢 言い方は悪いんだけど……そう言ってもいいくらいですよね。文化としては、非常に幸福な時代ではあるんです。でもそれを生み出すには、能力のある作家が必要だし、しかしその人数は限られている。その中で、その人たちがいくつ作品を出せるのか……ということがありますから、みんながみんなやれる仕事ではないんですよね。選ばれし人たちが、どれだけのものを吐き出したか……というのがまず土台になっている。だからいろいろ異常な時代ではあったと思います。

岡村 だからマンガ家って、続けるのも大変な職業だと思うんですよ。人気だけじゃなく、健康面でも。

浦沢 自分の仕事場を「マンガファクトリー」として制作所にするか、本当に自分が描きたいものにこだわり続けるか、どちらを取るかによって制作体制も変わってきますよね。でも僕は、自分で描いてる作家さんが好きなんです。三山のぼるさんとか。坂口尚さんとか。でも自分で描いてる人たちは本当に亡くなっていきますね。今敏さんも(*)。彼は、あのPARACHUTE(林立夫、斎藤ノブらが在籍するフュージョンバンド)の今剛さんの弟さんなんですけど。

*マンガ家としてデビューした後(当初は大友克洋のアシスタントだった)、アニメ制作に関わっていく。初監督作の『PERFECT BLUE』のほか、『千年女優』『パプリカ』などの作品が代表作として知られている。2010年、46歳の若さで死去。公式HPの日記に、彼の最後のメッセージが遺されている。

岡村 そうなんですか。

浦沢 お兄ちゃんがあんなことやってるから、自分もああいう自由な仕事がしたいと言って、それでマンガを描き出したそうです。そこからアニメもやり始めて。やっぱり彼も全部自分でやるタイプの、大友(克洋)さんの直系のフォロワーなんだよね。

岡村 先日、筒美京平さんが亡くなりましたよね。以前、こんなことをおっしゃっていたんです。「もっともっと俺に曲を頼んでほしい。曲を依頼されて、負荷を掛けてもらうことで名曲が生まれるんだ」って。だからさっきお話しされた、常識では考えられないような手塚さんのスケジュールと、その中で手塚さんが名作ばかりを生みまくったそのタイミング。それがあったから名作が生まれたのかもしれませんね。常人には想像もつかない世界で、ものすごい負荷の中で仕事をされていたからこそ、生まれた名作というものがあるのかもしれませんね。

浦沢 それはあるかもしれない。

岡村 僕も「この歌手のために、こういうテーマで、いついつまでに曲を書いてほしい」とお題を提示されることで、いろいろ見えてくることがあるので。もし「8年かけてもいい、好きなタイミングで好きな曲を作ってくれればいいよ」と言われたら、呆然としちゃうと思うんですよ。

浦沢 それは呆然としますね。僕も呆然とします。

 

 

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