<文・太田光>
知の巨人
「ほぉ、なるほど面白い……」
まっ白な髪の男がブツブツ言いながらメモ帳に何か書き込んでいる。男が生きた世界では今も混乱が続いていた。未曾有の感染症爆発によって世界は不安のるつぼの中。特に男がその生涯を過ごし、見つめ続けてきた国では人々の意見が対立し、五輪か命か、という議論が毎日繰り広げられていた。
ここ二年。怯える人々を見るたびに、今こそ、長年生きて、自分が得てきた知識体験を人々に伝えたいものだともどかしい思いになることも多かったが、どうやら自分にはもうその余力は残ってないらしいと悟っていた。
なるほど、死期を悟った時、人はこういう状態になるのか。「死」もまた男が長年考え続けた大きなテーマであり、最後の、究極的問題であった。死を知るために男は今まで何度も死の淵まで行った人々にインタビューをし、自ら疑似体験までした。しかしこればっかりは、本当の体験をしてみなければわからない。
そういうわけで今、男はこれから自分の身に起きることにワクワクしていた。死とはどういうものだろう?
男は生涯好奇心の塊だった。知りたいと思ったことを知れば知るほど未知の領域が広がった。いつまでたっても自分は知らないものだらけだと思った。そんな世界を愛していた。その世界に生きる人々のことも愛おしく思っていた。
だからこそ今、この国で不安でいっぱいになっている人々に今まで自分が知ったことを伝えてあげたい気持ちはあった。しかしタイミングが悪かった。今、男には死が迫っている。人々に助言してやりたい気持ちはあったが、それどころではなかった。これから自分の身に何が起きるのか? どうやってその時を迎えるのか? それはどんな体験なのか? 男は夢中だった。この時をずっと楽しみに待っていたのだ。男は死を知るために生まれてきたと言ってもいい。大丈夫。私が何も言わなくても人は何とかするだろう。人類は大抵間違うが、一方でそう大きな間違いをすることも難しい。
残念ながら、自分が死んでしまえば、今知ったことを後世に伝えることは出来ないが、それはいずれそれぞれが知れば良い。そう思いながら男は自分の脳と身体に起きる変化を頭の中に次々とメモしていった。
「ケケケ、無責任だニャぁ」
と言ったのは、耳が長くてウサギのようだが、顔は完全にネコのウサギネコだ。
男は意にも介さず、
「ハハ、私は人のために生きてきたわけじゃないさ。自分のために生きてきた。知りたいと思うことを知るためだけに。それを邪魔する奴とは戦ったようなこともあったがね。今まで書いてきた物も皆自分のためさ。私はずいぶん楽しかった。人はそう簡単に人のためになんか生きられない。私はかつて死は怖くないなんて言ったがね。それは本当は嘘さ。本当は、怖いかどうかすらわからない。ただ死が何なのか知りたいって気持ちでいっぱいだったのさ。だから死が楽しみで仕方なかったんだ。死が怖いって人がいるとすれば、それは死以外に知りたいことがたくさん残っているからだろう。そりゃ私にもまだまだ知りたいことはたくさんあった。宇宙にも行ってみたかったし、この目で地球も見てみたかった。人間はこれからも大きな発見をするだろうし、新しい万物の法則も見つかるだろう。しかし、どれもこれも死を体験する以上のものではないだろう? それにこの歳になれば、私には大方のことは予想がつくしね。どれも死を知ることと比べたら大したことではない」
男は実に楽しそうにニヤニヤ笑っている。
ウサギネコは自分のお株を奪われたような気持ちになった。
「フニャ、でもお前は今までずいぶん人を導いてきたニャ」
「ハハ、導いてなんかいないさ。そんなたいそうなことは考えたこともない。自分が知ったことは面白けりゃ人に伝えたくなるだろ? だから伝えてきた。全部自分のためさ。私は人生で伝える時間より知る時間の方が遙かに長かったよ」
「ふーん。でも今はみんニャ、今こそお前の思ってることを聞きたがってるニャ。お前はいまの世界を見てニャにを思うんだニャ?」