いま日本のフィメールラッパー批評に必要なのは「第一歩を踏み出すこと」『わたしはラップをやることに決めた フィメールラッパー批評原論』つやちゃんインタビュー【2022年BOOK】

『わたしはラップをやることに決めた フィメールラッパー批評原論』を上梓した、新進気鋭のライター・つやちゃん。WEBを中心にキャリアをスタートしたつやちゃん。視点の新しさ、眼差しの深さ、さまざまなボーダーをひらりと超える軽やかさと優しさをもつテキストで、注目を集める存在だ。そんなつやちゃんが”フィメールラッパー”にスポットを当て執筆した初の単著について、オルタナティブなカルチャーを愛する音楽ライター・宮崎敬太氏と対話してもらった。

 

取材&文/宮崎敬太

 

いま日本のフィメールラッパー批評に必要なのは「第一歩を踏み出すこと」

 

編集部:つやちゃんさん初の著書『わたしはラップをやることに決めた  フィメールラッパー批評原論』を拝読しました! わたしは熱心なリスナーではないですが、女性としてヒップホップカルチャーに対してモヤモヤすることが多くて…。だからこの本を読んですっきりしました。

 

つやちゃん:じつは本の感想を直接聞くのは初めてなので今とても感動しています(笑)。

 

編集部:つやちゃんさんのことはminan(lyrical school)さん、Rachel(chelmico)さん、valkneeさんの座談会記事(https://qetic.jp/interview/lyricalschool-210420/394533/)で知ったのですが、同じ時期に田中絵里菜さんの『K-POPはなぜ世界を熱くするのか』の取材で宮崎さんとも知り合ったんですよ。お二人ともヒップホップの記事を書かれているけど、オルタナティブな視点を持たれているのが印象的だったので、今回はお二人でお話しいただきたいなと思いました。

 

宮崎:僕も拝読しました。率直な感想は「よくやったね! すごいっす」です(笑)。自分が中年男性だからということもあるけど、このテーマはあまりに繊細で取り扱いが非常に難しい。僕にとって女性は性愛の対象であるがゆえに、意図しない差別意識が文章に出てしまう可能性がある。その意味で「つやちゃん」という、男性とも女性とも取れる名前は重要だった気がします。

 

つやちゃん:それはおっしゃる通りですね。ヒップホップという男性優位のカルチャーにおける女性たちを論じる本である場合、わたしが男性であると「男がフィメールラップを論じるのか」という反論が出てくるし、女性であると「どうせ内輪でやってるんでしょ」という空気が出てしまう。だから宮崎さんみたいに感じる書き手がほとんどで、結果日本ではフィメールラップがあまりにも語られてこなかった。

 

宮崎:ハンドルネームを使うことで性別も年齢もすべてから解放されますからね。ネット空間の匿名性についてはネガティブな面もあるけど、この本に関してはポジティブに作用していると思いました。筆者の素性がわからないことで担保される公平さというか。今の世の中って複雑だから、白でも黒でもないオルタナティブなグレーなんて当たり前だけど、こと議論になると、極端に二極化した答えを求められがち(笑)。

 

つやちゃん:そう。フェミニズムという思想ひとつとっても、非常に細分化されていていろんな価値観がありますもんね。だからみんなどう書き始めていいかわからない。加えて、このテーマは誰かの味方をすることで、同時に誰かの敵になってしまう状況が両立してしまう。結果、みんなを敵に回しちゃうんじゃないかって思いますよね。だけど、この本の元になる連載をKAI-YOU Premiumで始めた時はそこまで深く考えてなかったんです。「いい作品がいっぱいあるのに、女性のラッパーの作品はあまり話題にならないよね。じゃあ、ちゃんと取り上げてちゃんと評価しよう」という。

 

宮崎:連載を進めていくうちに、徐々にという感じですか?

 

つやちゃん:はい。連載に加筆修正したり書き下ろしを加えたりしてる時は「これどんな本になるんだろう」と思いつつ言語化できないぼんやりとしたビジョンはあったんですよ。あれこれ考えた結果、いま日本のフィメールラッパー批評に必要なのは「第一歩を踏み出すこと」なんじゃないかっていうとこで、ようやく「まえがき」を最後に書き始めたという感じでしたね。

 

編集部:ディスクレビューの量が尋常じゃないですよね(笑)。同時に中村佳穂『AINOU』、春ねむり『春と修羅』、MINMI『identity』、ゆるふわギャング『Mars Ice House II』が同じページ(P236)に載ってることも面白かったです。セレクトもお一人で?

 

つやちゃん:はい。わたしにはライター仲間や編集者の知り合いがいないので、誰に相談することもなく。なので本が出てから「あれは入ってないの?」みたいな意見が出てきていて。でも、それこそがわたしの望んでいたことなんですよね。みんなどんどん「これが載ってないのはおかしい」と声を上げてほしいです。本を書くにあたって、いろんな時代の女性ラッパーのいろんな記事を探したんですよ。一次情報としてインタビューは非常に貴重ですし。でもあんまりない。レビューも、雑誌の片隅にちっちゃく載っている程度。「女性のラップ」はそれほど語られてないテーマなんです。

 

MCバトルではなくサイファー。論破ではなく対話

 

編集部:当時のヒップホップカルチャーの中で、「女性のラップ」はなぜ取り上げられにくかったんですかね?

 

宮崎:単純に世の中が追いついてなかったんだと思います。アメリカでも女性ラッパーが本格的に注目されだしたのはカーディ・Bが出てきた10年代半ばくらいだし。それに日本でヒップホップが理解されたのってめちゃめちゃ最近なんですよ。僕は2005年から日本語ラップの記事に関わるようになったんですが、アメリカのヒップホップはともかく、日本語ラップを好きな人は相当マニアックというか。イベントも男ばっかだったし。あの頃の日本語ラップにおける女性を取り巻く空気感という意味でとても印象的な出来事があって。COMA-CHIがメジャーデビューしたタイミングのイベントだからたぶん2009〜2010年くらい。ライブの曲間MC中に酔っ払った男性客の1人が曲間のMC中にずっと彼女に向けて胸の大きさをからかうジェスチャーをしてたんです。おそらくそれはステージ上からは見えなかったと思う。けど客観的に見て「そりゃないだろ」と呆れたし、「普通好きなアーティストに向けてそんなことしなくない?」という驚きもあったんですよ。そんなセクハラがまかり通る世の中でした。

 

つやちゃん:ふた通りの女性ラッパーがいると思うんですよ。ひとつはそういうセクハラを跳ね返してしまうような強い人。もうひとつは気にしない人。COMA-CHIは後者だった気がします。それはこの本のインタビューをした時も話されてました。そうじゃないと(日本語ラップのシーンでは)やっていけなかった、と。でもここ5〜6年で女性ラッパーも増えてきたので、そう言っていられなくなってきたのが昨今という感じじゃないですかね。

宮崎:あと今回の本で印象に残ったのはCOMA-CHIさんの「言い負かすことに興味ない」という発言。

 

つやちゃん:そういう女性の方って多いんですよ。むしろ「なんで男性はあんなにMCバトル好きなんだろう?」と。でもCOMA-CHIは「サイファーは好き」と言っていて。これって論破か対話かってことだと思うんですよ。わたしも議論を深めていくのは好きだけど論破には全然興味ない。「ヒップホップにおける女性」というテーマってSNSで頻繁に話題になってみんな喧嘩してるじゃないですか。「●●がバトルで言った●●という表現はミソジニーじゃないか」とか。でも毎回同じ話で、議論がなかなか進歩していかないんですよね。そういう状況をどうにかしたいという気持ちもありました。

 

宮崎:日本におけるヒップホップのマチズモに対する一般人からのアンサーは文字通りPUNPEEの登場に象徴されると思うんです。あと2011年に出た長谷川町蔵さんと大和田俊之さんの『文化系のためのヒップホップ入門』。この本が出るまで、ヘッズじゃないとヒップホップを聴いちゃいけない、みたいな空気があったし。今回の『わたしはラップをやることに決めた』はそのフィメールラップ版みたいな感じがしましたね。

 

つやちゃん:そんな……、光栄です。そういう意味ではvalkneeさんの登場は大きいですよね。彼女はむちゃくちゃすごいことをしてると思う。だって、今の音楽シーンを俯瞰で見て、アイドル文化があり、K-POPがあり、ラップが多様な形で浸透していて、ネットではいわゆるハイパーポップのような熱が生まれていて、っていうそれらを全部つなぐかのように活動しているんですから。

 

宮崎:確かに「SUPER KAWAII OSHI」なんてオタ活経験がある人にとっては、パンチラインだけで構成されてるような曲ですよね。昨今のケーポの浸透度を考えると、この曲はKOHHの「JUNJI TAKADA」レベルのインパクトがあっていいようなもんだけど、valkneeさんのSpotifyの月間リスナーは5000人弱なんですよね。潜在的ファン層に届いてないのかなって思って、勝手にめちゃ責任感じてました。だって僕はK-POPも好きで、最近は乃木坂46にもハマってるから、valkneeさんのリアルにいち早く気づいて言語化しなきゃいけなかったのに……。

 

つやちゃん:(笑)。でもメディアの人たちはラップをするイケてる女性にもっと注目するべきだとは思いますね。Zoomgals周辺はもちろん、今はサンクラにもかっこいい女性ラッパーが山ほどいるじゃないですか。

 

女性たちはこんなに広くラップを捉え、柔軟に取り入れてた

 

宮崎:本書のvalkneeさんのインタビューで「一緒にイベントに行ってくれる人もあまりいないし、『田中面舞踏会』とかに行ってる人が羨ましかった」という発言が印象的だったんですよ。

つやちゃん:どういうことですか?

 

宮崎:ヒップホップって日本だと女性にとってかなりハードル高いのかなって。『田中面舞踏会』ってヒップホップイベントの中でもかなりオルタナティブな部類だったと思うんですけど、そこですら「一緒に行く人がいない」んだな、というか。冷静に考えると、ガチのラップ好きの女性はかなり少ないかも……と気づいて。それで自分の仕事を顧みると、つねに内向きの内容になってた可能性があるなって。

 

つやちゃん:何を伝えるかというテーマの話だけではなく、どう伝えるか、どう書くかっていう部分でもわたしはもっと自由でいいと思うんですよね。いま日本のヒップホップを取り巻く言論の状況って、いわゆるプロモ―ショナルな書き方か、(文芸)批評的なアプローチの2つがあると思うんです。わたしはどっちも好き。だからもっとクロスしたらいいのにと思う。でも、これってヒップホップに限ったことじゃないですね。例えば小説でも『ダ・ヴィンチ』的なプロモーショナルなものと、アカデミックな批評がまったく違う世界になっている。そういった、軽やかさと重厚さみたいなものを混ぜてるのが千葉雅也さんであったり、最近の音楽評論であればimdkmさんや伏見瞬さんであったり。ラッパーとかまさに、伝統的な重さを大事にしながらもある意味チャラい人たちっていうのが時代を切り拓いてきましたよね。

 

編集部:そういう意味では、AwichさんのMV「どれにしようかな」はすごく新鮮でしたよ。あいみょん等のスタイリングも手がけている服部昌孝さんが彼女のビジュアルを作ってて。

 

宮崎:確かにステレオタイプなラッパー像とは違うビジュアルでしたね。ちょっと僕はLittle Simzにも通じるスタイリッシュさだと思いました。てか、そうか。これってラッパー側は柔軟に多様化してるのに、メディア/言論側がそこに気づいてトピックとして言語してないってことなんだ……。

 

つやちゃん:いまって音楽に限らずどの文化のジャンルにも当たり前にサブジャンルがあって、各々が独自にファンダムを形成してますよね。ただそこに共通言語がない。だから対話できない。結果、複雑でわかりづらくなってしまう。わたしはラップにはそんなファンダムの壁を突破する力があると思うんです。シンプルが故の力強さというか。

 

宮崎:あー、なるほど。僕、渡辺志保さんと高橋芳朗さんを尊敬してるんですが、お二人に共通するのは音楽とカルチャーに深い造詣があるにもかかわらず、知識マウント的なやだみがなく、さらに文章から愛を感じるからなんです。先日取材させていただいた大和田俊之さんもそんな印象の方でした。自分もそんな原稿を書きたいなとは常に思ってますね。

 

つやちゃん:なんか「原稿は好きや愛を切り離して書くべし」みたいな文化があるじゃないですか。わたし、それに全然ぴんと来ないんですよ。ちゃんとしたスキルで表現できていれば、好きでいいじゃないって(笑)。

 

宮崎:その意味では『わたしはラップをやることに決めた』ってめちゃ良いタイトルですよね。愛と初期衝動と女性の決意がシンプルに表現されてる。

 

つやちゃん:今のヒップホップなり、ラップミュージックには正解がないと思うんですよ。この条件とこの条件を満たしてないと評価されないなんて感覚はもはや古い。わたしがディスクレビューをたくさん書いたのは、約40年前から女性たちはこんなに広くラップを捉えて、柔軟に取り入れてたんだよってことを伝えたかったからです。みんなラップが大好きで、女性が圧倒的に少ないコミュニティながらも何かしらそこに救いを見つけてやってきた人、ただただ楽しいからやってきた人、色んなラッパーがいる。彼女たちがやってきたことに光を当てたい、それがこの本で一番伝えたかったこと。そこから対話していくことで、カルチャー全体がもっと面白くなっていく気がするんですよね。

 

『わたしはラップをやることに決めた フィメールラッパー批評原論』つやちゃん
本体2,200円+税 発行元:DU BOOKS 発売元:株式会社ディスクユニオン

 

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