<文・太田光>
歌
男は、まっ暗なスタジオの端っこの床に座っていた。そこは世界の端っこのようだった。
もう何時間、こうしているだろう。いや、待てよ。何時間ところじゃないんじゃないか? 何日?……何カ月?
息を潜め、隠れるように。見つからないように。
ずっとここにいる気がする。
視線の先にアンプが見える。ギター。キーボード。ドラム。ベース。マイクスタンド。ヘッドフォン……。
ふと、男の口からかすかなメロディが漏れた。何の歌ってわけじゃない。今思いついたメロディ。メロディと言うより、うめき声のようだった。
天窓から光が差し込んで木の床を照らしている。これから何をしよう。俺の居場所はどこだろう。ぼんやりと、ずっと考えている。
外の世界は今どうなってるんだろう。
東京オリンピックがとっくに終わったことは知っている。他のことはあまりわからない。
男はずっと情報を遮断していた。
自分に向けられる言葉は全て刃のようだった。全人類が、お前の顔は見たくないと言っていると感じた。お前の声も聞きたくない。お前の言葉も知りたくない。お前の存在も感じたくない。お前の歌も聞きたくない。
生きていることはいつか誰かに許されるのだろうか。
喉が渇いていることに気がついて、まだ俺は生きていると思った。
ふと、さっきのメロディを思い出し、口ずさむ。
優しい歌が作りたい。
誰が僕の歌を望むだろう。涙が出るわけでもない。怒りが込み上げるわけでもない。しばらく笑ってもいない。
この先何が出来る?
「ケケケ」
ヘンテコリンな声がして、見ると奇っ怪で白い小さな動物が笑っていた。
耳が長くてウサギのようだが、顔は完全ネコのウサギネコだ。ネコが俺を笑っている、と、ぼんやり思う。
「失礼ニャ! おれはネコじゃニャイ! ウサギだニャ!」
不思議なはずだが不思議とも感じなかった。そんなこともあるだろう。
「おまえ、まだかっこうつけてるニャぁ」
かくされた悪を注意深くこばむこと。
そんな言葉が浮かんだ。誰かの詩だった気がする。
「おまえはこのまえ、世間に言い訳をしたんだニャ。もう発信してるニャ。いまさらかっこうつかニャイニャ。ケケケ」
確かにそうだった。
男は少し前、久しぶりに雑誌のインタビューを受けた。過去の出来事について、過去の自分について、説明をし、謝罪をした。
「おまえは世捨て人を気取ってるけど、世間と繋がろうとしてるんだニャ。ぶざまだニャぁ。ケケケ!」
不様。
確かに不様だった。こうしてずっと床の木漏れ日を見つめているだけの自分。
「教えてやるニャ。人間はぜんいんぶざまだニャ。おれが今まで会ってきた人間は、ぜんいん、ぶざま。だニャ。そこがおれ達ウサギとは、大ちがいだニャ。ケケケケ」
ふと、世界のことを考える。今もどこかで兵士が傷ついているだろうか。今もどこかで、産声が挙がっているだろうか。ブランコは揺れているだろうか。地球は回っているだろうか。
「ケケケ、本当におまえは気取ってるニャぁ」
ここにいて、いいのだろうか。どっかに行こう。どこに行こう。
「望まれる歌じゃニャイとつくらニャイのか?」
望まれる歌?
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投稿者プロフィール
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太田光(おおた・ひかり)●1965年埼玉県生まれ。中でも文芸や映画、政治に造詣が深く、本人名義で『マボロシの鳥』(新潮社)などの小説も発表。
田中裕二(たなか・ゆうじ)●1965年東京都生まれ。草野球チームを結成したり、『爆笑問題の日曜サンデー』(TBSラジオ)などで披露する競馬予想で高額馬券を的中したりと、幅広い趣味を持つ。
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