<文・太田光>
スポーツ大会
「こんな状況で本当に安全・安心な大会なんか出来るんですかね? ちゃんとしたエビデンスを示してほしいですね」
ワイドショーのコメンテーターが渋い顔をする。「先生どうですか?」司会者が大学医学部感染症専門という教授に聞く。
「これは自殺行為に近いですね。こんな状態で、外国から十万人規模の人間がやってきて感染拡大を抑え込めるとは科学的にはとても思えません」
「なるほど、今回こんな感染者予測も出ています。ごらんください」
モニターには右肩上がりの折れ線グラフが映る。
「ここで緊急事態を解除して、五輪を開催した場合、この時点ではこれほどまで感染者が上がる試算です。こうなったら誰が責任を取るんでしょうか?」
青年はテレビを観ながら恐怖を覚えた。ここ一年何度も味わってきた未来への恐怖だ。しかも今回はその未来に明確に自分が関わっている。青年は五輪代表選手だった。
「守るべきは国民の命です。命を犠牲にしてまで開催するオリンピックに何の意味があるんですか?」
自分が人を殺すかもしれない。
そんなふうに考えたのは初めてかもしれない。
「ケケケ、今まであの手のグラフが当たったの見たことニャイニャ」
どこからヘンテコリンな声が聞こえたような気がした。
テレビでコメンテーターが言う。
「オリンピックは平和の祭典でしょ? これほど大勢の国民から反対されてるイベントが果たして平和の祭典と言えますか?」
国民から望まれてない大会……。
「ケケケ、お前には棄権する権利だってあるニャ」
やっぱり聞こえる! 青年は声のした方を見る。そこにいたのは奇っ怪で白くて小さな動物。耳が長くてウサギのようだが顔は完全にネコのウサギネコだ。
「お前は?」
「見てわからニャイの? ウサギだニャ」
「ウ、ウサギ?」
「ニャ! ニャッ……ニャッ……ニャ」
ウサギネコは準備体操のようなことをしている。屈伸、腕立て、ひざ上げなど。
「ケケケ、おれも代表選手ニャンだ。ニャ……ニャ、ニャ、ニャ」
「代表?」
「世界動物スポーツ大会だニャ!……ニャッ……ニャッ、ニャッ、ニャッ……フニャっ!」
ウサギ跳びを始めた途端、前につんのめって倒れた。「痛いニャぁ」
青年は呆然としたままだ。
「ケケケ」ウサギネコは笑うと青年に言った。
「辞めたキャ、辞めればいいニャ。おれは出るけどニャ」
「何?」
「おまえは国民のために大会に出るのかニャ?」
「え?」
「今、この大会を国民が望んでニャイことを気にしてたニャ。いろいろ変わって大変だニャぁ」
「ど、どういうことだ」
「ケケケ、ちょっと前まで、おまえは、大会に出るのは自分の為だって必死で自分に言い聞かせてたニャ。メダルばっかり気にするんじゃニャイって。自分は国民の期待の為に出るんじゃニャイ。自分が楽しむ為に出るんだニャって」
確かにそうだった。代表に選出されてからは、急にプレッシャーが上がった。国旗を背負うなんて意識はそれまで無かったが、周りが自分を見る目が少しずつ変わっていくのを感じ、周囲の期待に応えなければと考えるようになり、徐々に国民の期待に押し潰されそうになった。そうなるごとにプレーが自分らしくなくなり、小さくなっていった。
コーチは察し、青年に「もっと楽しめ」とアドバイスした。「メダルなんか気にしなくていい。自分のプレーを存分にすることの方が大切だ」と。
青年はこの一年、気持を切り換えることに努めてきた。大会を楽しもう。誰に出ろと強制されたわけでもない。競技が好きで、自分が出たくて、自分で選んだ道だ。誰かの為じゃなくて、自分の為だ。まずは自分が納得いくプレーをすることだ。メダルは後からついてくる。思う存分プレーして、自分の為に大会を楽しもう。
しかしここへ来て、自分も、そしてコーチも国民の視線を気にするようになっていた。私達のやっていることは誰にも望まれてない? 人を殺す?