<文/太田光>
舟
京都。
沈黙の男を乗せた小さな舟が、黒い水の面をすべっていく。その日は風も止み、空一面を覆った薄い雲が月を霞ませ、そろそろ近づいてくる真夏の暑さが川床の土からもやになって立ち上がってくるようだった。
男はぼんやりと水面を見つめているようだが、その目はうつろで魂が抜けたよう。口を少し開けたまま微動だにしない。
「答えは出たのかニャ?」
ヘンテコリンな声がして我に返る。
「ケケケ」
笑い声がする。男はキョロキョロとあたりを見渡す。目の前に白い奇っ怪な小さな動物がこちらを向いて座り、ニヤニヤと笑っている。耳が長くてウサギのようだが、顔は完全にネコのウサギネコだ。
……え? と、男は思う。……あそこには確か、あの男が座っていたはず……。
そうだった。確かに今ウサギネコがいるへさきにあの男が座っていた。今男がずっと考え続けている問いを投げかけた男。
……彼はどこに行った? いや、俺はいつからこの舟の上にいる? あれからどれほど時間がたった? ついさっきのような気もするし、長い時間が流れた気もする。
周りを見渡すと何も変わってない。暗い闇の中、人は皆寝静まっている。世界は静寂に包まれている。
初めから不思議な男だった。この舟に乗る人間は誰もが悲壮な表情で、見ていられないほど、気の毒な様子でいるのが当たり前だった。しかし彼は違った。ずっと月を仰ぎ、その目には晴れやかな輝きすら見て取れた。何かが吹っ切れたような、ようやく重荷から解放されたようだ。あり得ないことだが、表情には希望の光すら見えたのだ。この舟に乗る人間であんな人間は見たことがない。
……あの男はどこへ消えた?
「ケケケ、いつの話だニャ?」
ウサギネコが笑う。
「あいつは何者……いや、お前は何者だ?」
「ウサギだニャ?」
「ウサギ?」
どう見てもネコだ。自分はおかしくなってしまったのだろうか? 男の話が衝撃的すぎて、自分はどうかしてしまったのだろうか。
「ニャぁ。いつまでそうして考えてるつもりニャンだニャ?」
「うるさい!」
男は思いかえす。ついさっきまでそこにいた男が語った話を。
男は殺人者だった。殺した相手は弟だ。そんなことをする人間にはとても見えなかった。
兄弟は親に早くに死に別れ、たった二人で肩を寄せ合うように生きてきた。掘っ立て小屋のような家に住み、いくら働いても楽にならずボロを着て、爪に火を灯すような生活が続いた。それでも二人はお互いをいたわり、何も望まず、ただただその日しのげればいいという暮らしだった。ある時、弟が病に伏せった。医者にもかからず、弟は寝たきりになる。その分兄は一人で働き、弟を養う暮らしが続いた。働けど働けど生活が楽になることはなかった。その日暮らし。兄も痩せ細り、このままでは兄弟二人ともが、いずれ餓えて死んでしまうだろうという状態だったと言う。
ある日。兄が帰ると弟が薄い布団の上に突っ伏している。布団は血だらけだったという。
兄は驚いて弟のかたわらへ寄りそい、「どうしたんだ?」と聞いたという。
弟は蒼白な顔で兄を見た。頬から首にかけてまっ赤な血に染まっていた。何かを言おうとするが息をする度にひゅうひゅうと空気が漏れるような音がするだけだった。
「どうした。血でも吐いたのか?」
弟は右手をついて体を起こす。左手はしっかり首を押さえているが、その指の間からまっ黒な血が次々と溢れ出てくるのだった。
弟は左手に力を込めてやっとの思いで言った。
「…す、すまない、兄貴、勘弁してくれ…俺はどうせこのまま治らない病気だ…いっそ死んで…兄貴に楽をさせようと喉を切ったんだが…息が漏れるだけで…死ねない、もっと深くと思って押し込むと、横にすべってしまった…もう話すことが苦しい。…兄貴どうかお願いだ。ひと思いに首を…」
左手を離すとまたひゅうと息が漏れる。見ると弟の首には深く押し込んだままのカミソリの柄が出ていた。兄はただ呆然とした。弟は兄を見ている。
「待て、すぐ医者を…呼んでくるから」
すると弟は再び左手で喉を抑えた。「医者が何になる…ああ、苦しい…お願いだ…首を切ってくれ…お願いだ…」