電気グルーヴの元メンバーであり、METAFIVEとしても活動するまりんこと砂原良徳が自身の作品を20年ぶりにリミックス&リマスターして発表した。彼が”最適化”(Optimized)と話すその変化はどのようなものか?そして同時に砂原良徳という音楽家は日本の音楽シーンの何を変え、何を更新してきたのか?90年代から今につながる時代を俯瞰しながら、音楽評論家の小野島大氏に読み解いていただいた。
文/小野島大
今年は『KERAさん逃げて30周年』だそうだ。1991年9月22日、某ライヴ・イヴェントに出演したKERA(当時LONG VACATION)が、酔っ払った対バンのギタリストに絡まれ、不穏な雰囲気を感じ取ったまりんこと砂原良徳(当時電気グルーヴ)が「KERAさん逃げて」と叫びKERAは脱兎のごとく走ってその場を逃れたという、言ってみればよくある楽屋裏のトラブルが、なぜ30年にも渡って語り継がれてきたかと言えば、その場にいた石野卓球とピエール瀧が、インタビューやラジオなどあらゆるメディアで事あるごとに面白おかしく語り続けたからだ。当時よく電気にインタビューしていた私も何度かこの話を聞かされ、いつしか本当にその場に居合わせたかのごとき錯覚を覚えるようになったほどだった。今でこそ完全に笑い話となっているものの、実際の現場はかなり険悪な雰囲気だったとも聞いているが、この出来事の一方の主役がほかならぬ砂原だというのは、結構象徴的な話だと思っている。
「石野卓球やピエール瀧にあって僕にないもの、それがロックなんです」
KERAに絡んだギタリストは、THE FOOLS、JAZZY UPPER CUT、ジャングルズ、午前4時といったアンダーグラウンドなバンドでプレイしていた故・川田良だったという。川田は私も面識があり、何度かライヴも見ているが、閃光のように切れ味鋭いプレイと、昔ながらのロック・スピリットを体現するような荒々しい生き様が印象的だった。当時36才だった川田と、ちょうど中間の世代に属する28才のKERAをはさみ、22才だった砂原は対極の関係にある。砂原は電気グルーヴ在籍時代に私のインタビューに答え「自分の作品にロック・スピリットはゼロである」と言い、「石野卓球やピエール瀧にあって僕にないもの、それがロックなんです」とも語っている。彼はロックに幻想を抱かない最初の世代のひとりだった。そういう意味でKERA以上に川田と深く対立しているのは実は砂原だったのだ。川田と砂原の対立は、ロックの精神性を巡る新旧世代の闘争と断絶だったとも言える。そして砂原の世代のミュージシャンが台頭し始めた90年代以降、川田が殉じたようなロック・スピリット、言い換えるとロックの精神性を巡る幻想のようなものが急速に風化していったことは間違いない。たとえばフリッパーズ・ギターや電気グルーヴのような人たちがーーあるいはスチャダラパーやボアダムスのような人たちもそこに含めていいかもしれないがーー既存のロックの枠組みを、形式的にも精神的にも破壊し乗り越え、新しいポップ・ミュージックの景色を見せていった。それが90年代という時代だったとも言える。もちろんいきなりすべての景色が変わったわけではないが、「KERAさん逃げて事件」を瞬時に笑いのネタに変え相対化してしまった石野や瀧の振る舞いこそは、それを象徴している。
アルバム『LIMITED EDITION NOT FOR SALE』に見える砂原良徳という音楽家の過激さ
当時電気グルーヴのインタビューを頻繁に行っていた私は、その過程でテクノや、その周辺の新たなエレクトロニック・ミュージックの魅力を知り、のめり込んで、それまでのロック中心の音楽観を大きく揺さぶられて耳が変わり、旧来のスタイルのロックがまったく聴けなくなってしまうという「革命」を経験した。年齢的には川田良と同世代で、川田同様にロックに首まで浸かっていた私にとってそうした「革命」はパンクに出会って以来だったが、それは間違いなく石野卓球や砂原良徳らがもたらしたものが大きかった。
電気グルーヴ在籍中に発表された砂原の最初のソロ・アルバムは『CROSSOVER』(1995)だが、その直前にリリースされたアルバムが常磐響との共作『LIMITED EDITION NOT FOR SALE』(1995)である。古今東西のジャンルを問わないモンドでラウンジな音楽を片っ端からサンプリングしてカットアップ・コラージュを施し、あらゆる音楽を文脈や精神性を無視して記号/情報として相対化し並列するような内容は、既存のダンス・ミュージックとしての形態をまだ保っている『CROSSOVER』以上に砂原という音楽家の過激な本質を伝えるものだったように思える。
90年代が終わり、2000年代が始まる
その後も『TOKYO UNDERGROUND AIRPORT』(1998)『TAKE OFF AND LANDING』(1998)『THE SOUND OF 70’s』(1998)と立て続けにリリース、90年代後半という時代を一気に駆け抜けた砂原は、確実に日本の音楽シーンのあり方を変えていった。1990年代後半は、CD売り上げがピークに達した時期でもある。日本の音楽が世界から注目され、日ごと夜ごと人びとはレコードショップに通い、誰も知らないレコードを血眼でディギングしていた。消費による自己実現というか、消費の傾向や速度、情報処理・編集のやり方に個人の感性やアイデンティティが規定されるような時代が90年代後半にピークを迎えていたのである。その象徴が『LIMITED EDITION NOT FOR SALE』や『TAKE OFF AND LANDING』であり、砂原の盟友とも言える小山田圭吾=コーネリアスの『FANTASMA』(1997)だった。しかしそれを最後に音楽業界のバブル的状況が霧散し、社会の空気は一変して、砂原の音楽は、2000年代の始まりと共に大きく変わる。砂原は先日私のインタビューに答え、こんなことを言っている。
「2000年から2001年ぐらいにわりと大きな区切りがありましたから、それに影響されて人びとの考え方も急激に変わっていく可能性があると思ってました。ここはスパッといままでのことを全部切り捨てていくほうがいいかも、と思ったことは覚えています。(90年代の音楽シーンの)楽観的な感じで今後ずっとやっていけるかといえば、それは絶対にないだろうなと。だからそこは切り捨てて、もうちょっと違う価値観やスタンスでやろうというのはありましたね」
砂原良徳が語る『LOVEBEAT』とその時代、リマスター盤〈Optimized Re-Master〉で何を変えたか
その新たな価値観とは、いわば情報万能主義への懐疑である。情報をたくさん持っている人、音楽に詳しい人にしかわからないようなものは作りたくない。情報を追いかけ情報に振り回されるような時代は終わり、ごくふつうの生活者としての皮膚感覚や、自身の内発性が重視されるようになった。それがコーネリアスの『POINT』(2001)であり、砂原の『LOVEBEAT』だった。
「タイムレスなものを目指す流行」そして、その変化
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