「フィクションの片隅で無意味に殺された君のための作品レビュー」【戸田真琴 2021年11月号連載】『肯定のフィロソフィー』

本記事は『イカゲーム』のネタバレを含みます。

 

 “生”の実感が希薄になり、夢を追うよりも今日を生き延びることが優先事項にならざるを得ない社会情勢の中で、もしも作品の鑑賞によってまざまざと”生きている実感”が得られるとしたら、それは十分エンタメとして機能するだろう。「虚像の理想を捨て、実像としての生を獲得せよ」が現代における最重要課題であると個人的にも考えているし、近年は第一話で主人公の家族が皆殺しにされる漫画が億を超える部数のヒットを出し、”人がほとんど死なない冒険物語”が最も売れていた時代を経て、王道のかたちが変わりつつあるといっても過言ではない。

 Netflixで世界90か国で1位を獲得し、巷でも流行りに流行っている「イカゲーム」という韓国制作のドラマ作品がある。こういう、どこそこで1位を得たりそこらじゅうの若者たちが話題に出す作品に敢えて触れてみて後悔しなかったことはないのだけれど、素直さを失わないのが私のいいところなので、ばかのふりをして期待まじりに第一話から再生する。物語はいわゆるデスゲームもので、借金苦による崖っぷちにいる人々が謎の招待状を手にし、優勝したら高額の賞金がもらえる、というゲームに参加するが、それは失敗したら即死の命がけのゲームだった……という内容である。少年マガジンあたりでも連載していそうな馴染みのある設定で、若者は特に入り込みやすいだろう。借金苦から死のゲームに手を出す設定がありふれているのも、異世界転生ものと共に、ある種極端な生き死にの描写が多分に含まれるフィクションが流行るのも無理のない世の中だということはとてもよくわかる。奇跡の一発逆転が訪れない限り抜け出せない泥沼の中にいるという、あのじわじわと膝下の動きが悪くなっていくような気怠い絶望感は、決してフィクションの中の話だけではないからだ。その点でこの作品は非常にうまいところをついているのだと思う。

 そのヒットの要因は今言ったような題材であったり、キャスティングやデザインの軽妙なあざとさであったりさまざまにあると踏んでいるが、それを予想して解説することは他の人がやるだろう。最終話までしっかり見たものの、正直私にはやっぱり良さがわからなかった。客観的な優れた面を認めることは当然できても、好みの範囲とはまた別の個人的なところで引っ掛かりが大いに残る。観客として適性がないと言えばそれまでなのだけれど、その違和感の正体を書いておくことこそが大切な気がしたので、ここに記すことにする。

 ここから語ることはあくまで私にとっての感じ方の話なので、そこで重要視しているすべてのことがどうでもいい、という人にはまったく意味を為さない感想である。だけれどそのうちひとつでも共感するところがある人には聞いてほしい話なのだ。

 当然のこととして、人がばたばた死ぬゲームを楽しんで鑑賞することができるということは人としてどこかの感覚が極端に鈍っている状態にあると思う。しかしその感覚は日常の中で簡単に磨耗してしまうものでもあるので、その場合そういう人を責める資格は誰にもない。ただ、物語の作り手が、リスクを犯してもそういった設定に手を出す場合、最低限わかっていなければならない暗黙のルールというか、大勢の人をターゲットにしたエンタメ作品として守らなければならない矜恃があると私は思っている。

 たとえば、

1、主人公は罪のない人間を殺さない

2、主人公が殺しを行う場合は、それ相応の確固たる信念が必要である(その場合ダークヒーローとして成立する)

3、主人公が卑怯な手を使って生き残ろうとする場合も、自制心によって打ち勝つ

 それは一見つまらないルールに見えるが、主人公が主人公たり得るために必要な背骨のようなものだと私は思う。もちろん例外はあり、こういうことがすべてどうでもよくなるほど別軸で圧倒的な背骨、あるいは全く背骨がないということ自体を魅せてくれるのであれば物語はもっと自由だ。あらゆる物語には絶対的なルールはない。あくまでこれは、私がこの設定(デスゲーム)の物語における理想を掲げているにすぎない。しかしこの点で、「イカゲーム」は大いに違和感が残る展開を繰り返したのだった。

「だるまさんがころんだ」や「型抜き」「綱引き」など子供の頃に遊んだゲームで命が賭けられる、という設定は奇抜で目を引くものだけれど、その突破の仕方に面白みがほとんどなく、大体のことが力技で切り抜けられていく。ここからどうしても日本における設定が似ている作品で最も有名な「カイジ」シリーズを挙げてしまうことを許してほしい。「カイジ」において、借金の返済を賭けて最初に行うゲームは「ジャンケン」である。こちらも、誰もが知っているゲームに重たいものが賭けられることになるのだけれど、その勝ち方は知略と策略に満ちている。ただのジャンケンでは終わらず、独自のルールが加わることによって非常に高度な心理戦としてゲームが行われる。運や力技だけでは勝ちを獲得できない、博打は確率の勝負だが、絶対の勝算はなくともあらゆる手を尽くして”勝率を上げる”ことは可能で、勝つ者はその勝利への階段を一歩一歩上った者である、というのが「カイジ」という作品を貫く勝利の哲学だ。そういう点でも、「イカゲーム」には作品を貫く勝負事の核のようなものが見受けられなかった。しかしゲーム性とその中で起こる哲学の応酬は、あったら嬉しい程度の副次的な面白みにすぎない。デスゲームものには本来もっと重要な要素があり、それが「主人公としての矜恃」である。

「イカゲーム」の主人公は、その点において決定的にやってはいけないことをして生き残っている。

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